1999年8月23日
平家落人伝説資料(2)
生涯学習振興財団公開講座
仲井 克己
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[資料3]柳川六騎の「大神宮」(付、「観音堂」)由来伝説
参考文献(注:8月4日配付資料に資料一覧を掲示)
b.『社会科教科書 郷土資料調査解説』第九編社寺 柳川、山門、三池教育委員会 昭和42年9月 永井新
c.『柳川史略』堤伝 柳川郷土クラブ(P.56に「六騎」解説)
L.『福岡県の歴史』川添昭二監修 光文館平成2年8月
M.『三瀦町史』三瀦町史編纂委員会 昭和60/9
P.57に、平安時代末期から鎌倉時代初期における三瀦庄に関する記述がある。
大神宮
祭神:天照皇大神(御神鏡・六騎)
「六騎」とは、山川町要川の戦いに敗れた平家の武将を言う。
一騎には少なくとも二、三人の下人従者が徒歩で随行する
(馬の口取り、かいばなどの世話役、兵糧の運搬、など)。
従って、柳川「六騎」は、伝説通りに六騎によって形成されたとしても、
総勢は二〇人以上の成人男子と、故郷から呼び寄せた家族などで構成されたと考えられる。
少なくとも100人程度の武装集団を形成していたか?
正段島が和田義盛の支配する三瀦庄に入るので、川向こうの「沖の端」に住んだ?
桓武平家の流れを汲む鎌倉幕府侍所別当であり三瀦庄地頭を兼任した和田義盛は、
海上交通の治安・海上貿易の利益などを優先し、「六騎」を黙認?
鎌倉幕府は、地方在住の平家を源氏側に取り込むような政策を取った。
源平合戦の後、九州の大豪族原田・山鹿・板井・菊池氏の所領を没収するなど厳しい処罰を行ったが、
宗像氏や筥崎宮司親重(福岡市東区)などの郡司・郷司・名主ミョウシュなどの
中小の武士勢力には反抗の罪を許し鎌倉幕府に取り込む政策を取った。
(『福岡県の歴史』川添昭二監修 光文館平成2年8月P.192)
大神宮創建の由来
社記によれば、以下の如し。
(『社会科教科書 郷土資料調査解説』第九編社寺 柳川、山門、三池教育委員会 昭和42年9月 永井新)
貞応年間1222-1223に、平益信・平高矩・平正勝・平清貞・平親英・平政直が柳川の六騎に来て此の地に居住した。
之を平家の六騎と称した。彼らは、漁業を営んでいた。
縁起書によれば、以下の如し。
肥後国士難波善良・浦川(河?)元ケ左衛門・若宮兵六・是永多七・加藤藤内・鳴神藤助の六人が住んでいた。
一夜のこと、難波・加藤は、伊勢に参詣すれば御神鏡を授けられるとの霊夢を感じて、
伊勢参りを思い立ち伊勢に出立した。授けられたのは、半鏡であった。
この頃、矢留の地に毎夜地下から光を発するとの不思議な噂が立った。
土地を掘ること三尺(約1m)余にして半鏡を発見した。
掘り出したところは、「鏡が池」として今に残る。
授かった鏡と合わせてみたところ、完全に一致した。正中元年十一月十九日1324のことである。
注:大神宮創建の年代については、以下の4説がある。
・貞応年間1222-1223
・寛喜元年1229(『柳川史略』は、「寛嘉元年1229」と記す)
・正中元年1324
・応永二年1395
半鏡は、未見。
鏡の作製年代は?
ただし、現存する鏡が創建当時のものであるかどうか不明。
また、伝承・信仰に関わることであり、「物的証拠」を必要としない。
六騎がいつごろ沖の端に来たのか曖昧なままであるが、三瀦荘の地頭職に鎌倉幕府侍所別当
(軍事警察を司る。「別当」は、長官。)である和田義盛が任命されていた頃か?
(文治五年1189に停止)。
注:和田義盛は、三浦氏の一族で、桓武平家。
中世、相模国の豪族。源頼朝の挙兵を助け、御家人となる。
1180年侍所初代別当。北条氏と対立から挙兵し、鎌倉にて敗死。
平家一族は有明海の海上交通に目をつけ、筑後川流域にも大きな勢力を持っていた。
その中心が三瀦庄である。
元来、平家は海上交通によって富を蓄えた一族であり、
鎌倉幕府も有明海の支配を目的として和田義盛を三瀦庄の地頭に命じられた?
平家の残党を掃討するために筑後国三瀦荘地頭に補任された和田義盛が
文治五年1189に地頭職を停止された際、
三瀦左衛門尉は義盛の弟和田宗美に招致され越後国奥山荘の桂関の関吏に任命され、
その血筋は現在まで続く(現代当主は、三瀦伸吾氏)。
筑後の国に残った三瀦氏の流れは、戦国時代に絶えている。
(三瀦町史別冊『中世の豪族三瀦氏の歴史』三瀦町(三瀦氏の歴史編纂委員会)平成9年1月。)
参考<三瀦庄について>
平治元年1159、平治の乱において藤原氏が内部対立。
源氏と平家が介入。源氏が負けて、平家の勢力が拡大。
津村(大川)の八幡宮は平治元年創建?
本所は、鳥羽上皇の御願寺である宝荘厳院で、領家が四条隆季であり、
父の中御門家成りが鳥羽上皇によって若狭守に任用されて以来、
上皇との関係が密接になって御願寺に寄進された」
(cf.『荘園制と中世社会』瀬野精一郎)
補説<「矢留」地名由来>
「矢留」地名由来伝説は、六騎の武者が海賊からの「矢を留めた」とするが、
松浦党水軍とも関係が深い平家によって有明海の秩序が保たれたことを意味するか?
参考<正段島>
志賀大明神が正段島にある。祭神は、底津、中津、表津ウワツ三柱の神。
天正16年1588、筑前志賀島明神を遷した?
立花宗茂が筑前から柳河に移るときにここに遷座。
この地は、藩主座乗の船(御座船)を係留したところといわれる。
正段島は、三瀦郡浜武村の一部であった。
田中吉政が天守閣を建てたところあまりに沖の端川が眼下にあって要害を欠くので、
川筋を掘り変えたため、正段島は山門郡に入った。
旧藩のころは、九社神社の神官は浜武村からやってきた。
正段島村には、船方が住んでいた。
(see:『柳河の歴史と文化』P.205-207)
和田義盛支配の時代、浜武村は三瀦庄に入っている。
(『吾妻鏡』文治5年1189)
・柳河藩の水軍基地としての沖の端(see:『柳河の歴史と文化』p.15)
御船方(1680年)「南方」風斗長兵衛 組員26名
「北方」吉村久左衛門 22名
「南方」「北方」241名の船乗りによって構成。
嘉永六年1853年、江戸幕府は大船製造の禁を解いた。
柳河藩は、6艘の大兵船ヘイセンを持っていた。
沖の端の「芳司家ホウジケ」は立花宗茂のお供として
上方から柳河に来て沖の端(正段島)に住み「軍船」を造った。
・「柳川三年、肥後三月、肥前久留米は朝茶の子」という俚諺(ことわざ)が残っている。
これは、柳川城が川や海で守られ、水路や寺などの配置に工夫が凝らされ、
さらに水陸の豊富な資源に恵まれていたことから、それほどまでに攻めにくい城という意味である。
参考:<「六騎」観音堂>
「六騎」における「神と仏」:「大神宮」の北側に観音堂がある。
「大神宮」が勧請される以前に、平家落人が祈りを捧げた観音と言われる?
(伊勢大神宮と、六道を輪廻する平家一族を救う観音・地蔵は、一体化している:『平家物語』壇ノ浦の合戦)
六騎「観音堂」のいわれは次の如し(cf.社会科教科書郷土史両調査解説)。
昔、此処には竹林寺という真言宗の大伽藍があった。
奈良時代、行基の作という観音様を大同二年807この竹林寺に移した。
貞応の頃(1222-1224)までは寺領があったが、今はわずかに観音堂を残すのみとなった
(注:近年、「六騎」の人々によって立派に修復された)。
この観音様は、本吉清水寺と京都清水寺の観音様と同木同作である。
天正年間1573-1592(織田信長から豊臣秀吉に移る時代)に再興されたが、文政1828の暴風雨で倒壊した。
(尚、京都清水寺の本尊は千手観世音菩薩)
考察
・都にいたときに平家が陣を構えた六波羅は、清水寺に近い。(『平家物語』巻一「清水炎上」)
清水寺は、延暦17年798坂上田村麻呂が創建。
延暦寺の僧によって度々焼かれる。有名なものとして、永万元年1165の焼失。
平家全盛時代であるため、再興にあたって莫大な寄進があった?
・また、筑後の清水寺は、平家が落ちのびてきたときに平家側についていたため、緒方氏の焼き討ちにあっている。(?)
・清水寺の千手観音菩薩は、坂上田村麻呂と関わりの深い観音様。
長谷寺十一面観音と同様に霊験奇瑞譚が豊富な観音菩薩。
「六騎」の観音さまが「行基作」ということであれば、年代がずれる。
(行基も、本朝に於いて説話伝説をたくさん有していることで有名。
役の行者エノギョウジャが山林を中心に広まるのに対して、行基は農村を中心に広まる。
cf.『日本伝奇伝説大事典』「行基」の項目)。
京都の清水寺と同木同作という説話も、あるいは平家伝承と関わって形成されたか?
[資料4]水天宮:平家追悼の宮
北原白秋『思ひ出』の中においてたびたび語られる水天宮は、平家一族ゆかりの宮である。
疑問点:柳川『水天宮』建立は、明治期に入ってから。
文禄二年1593立花宗茂が久留米から筑後川を狐火にに導かれて柳川城に入った。その時に稲荷神社を建てた。
考察
山川町谷軒(平家落人の里。七軒あったが、今年の七月に二軒にまで減った)。
そこに住むおばあちゃん(加藤家。由来あって、戦争中に改名)に、いろいろとお話を伺うことができた。
「水天宮」は、5月5日の行事として、昔から大切にしてきた。
神社は、ない!
神事は、川で祭をしている。
柳川沖の端も、以前は川で水天宮を祀っていた?
水天宮とは?(『日本伝説大系』の資料に、『水天宮神徳記』が掲載。コピーとして添付)
久留米市瀬下セノシタ町。
祭神:天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位尼(平時子)
例祭:5月5-7日、河童祭、川祭とも称す。
源平合戦で平家が敗れたのち、女官按察使伊勢局ニョカンアゼチイセノツボネがこの地に逃れ来たり、
千歳川(筑後川)のほとりの鷺野原に安徳天皇の霊を祀ったのに始まると伝える。
伊勢局は剃髪して千代と名を改め、加持祈祷を行った。人々は尼御前と称し尊崇した。
(ちなみに、源氏は、平家の女官たちを処分しなかったので、それぞれ親戚縁者などを頼って生き延びた。)
以後、水天宮の神は、筑後川の水神となった。また、安産祈願で有名。
「筑後誌」によると、慶安3年(1650)に久留米第二代藩主有馬忠頼公が社地社殿を寄進し、現在地に鎮座。
それまでは、江南山海林寺の山上にあり、山下には神池があったという。
江南山は、御霊系統の母子神を祀る霊場であり、そこで密教修法の水天供を修したために、
安産祈願の神としての性格付けが行われたか?
久留米藩主有馬氏の崇敬を受け、文政元年1818には江戸の芝赤羽に勧請。
以後、赤坂・日本橋蠣殻町カキガラに移築され、1878年からは一般の参拝も許された。
安産のまじないとして、戌イヌの日に腹帯をわけたため東京都民の信仰を集めた。
高田町大字海津字海門の水天宮
梅津は、昔は港として栄えた。
奈良時代の宝亀9年(777)には、官道の狩路駅の水駅とされたところである。
飯江川と大根川の合流点。常に水害に悩まされてきた。
明治十五年旧二月二十五日大洪水があり、飯江川の橋梁が流失。全家屋60%が床上浸水。
村会で海津橋流失現場の川の流れを調査するために青年数名を泳がせたら、一名が水死し人柱となった。
そこで、水天宮を勧請し海門の江越川の一小島を拡張して橋に結び社殿を建立し水難の守護神としてお祀りした。
昭和十年代までは、五月五日の祭礼日には道路に数十軒の露天商が並び賑わった。
水天宮横の田の中に舞台を掛け、芝居が5から6日興行された。家々では、祝宴が続いた。
渡瀬の水天宮
祭神は、安徳天皇。護符は、久留米の水天宮から授けられる。
水難に霊験有り。子供が水天宮のお守りを首からぶら下げる。
八剣神社(祇園さん)の傍らにあり、露天や農具市で賑わった。
人々は石段を登り参拝。お守りをもらう。氏子は甘茶を売る。福引きもあった。
[資料5]山川町の平家伝説
山川町教育委員会
〒835-01 福岡県山門郡山川町大字原町378-1 0944-67-0437
源平最後の決戦場所となった山川町要川に記念公園が建設されました。
山門郡山川町大字甲田 JRバス中原下車徒歩2分
瀬高駅からJRバス山鹿行25分。
尚、要川公園付近は旧街道が保存されています。
白秋が南関の外目から柳川に帰るときに通った道です。
(「物見塚」:平家武将が陣頭指揮をとった場所)から「要川公園」に至る道は、
昔の面影が残っています。
山川町教育委員会では、今後平家関係の資料の蒐集・遺跡の発掘を精力的にしていくそうです。
また、平成版筑前琵琶「山川町平家残照」(仮題)も制作予定とのことです。
*****
山川町における「要川の戦い」は、文字通り平家にとって最後の戦であった。
この戦いに敗れた平家は、それ以降軍の組織を解き、各個に生き延びる算段をすることとなる。
運を強く意識したのは、武者であった。
修羅の世界を生きた武者の末期は、天地の間に立ち、抗うことなく己の運を粛々と受け入れることにあった。
新中納言知盛が壇ノ浦にて
「見るべき程のことは見つ」
といってのけたとき、知盛の眼には先世の十善戒行の力によって万乗の主とうまれながらも
御運尽きて浪に玉体を沈ませた安徳天皇の末期の姿があった。
知盛は、平家一族の、そして武家に生まれた者たちの運の果てを見た。
壇ノ浦から九州に落ちのびた平家一門は、筑後の山門清水寺の僧兵や郷土の雄田尻氏の加勢を得て、
筑後と肥後の境にあたる飯江障子ケ岳の麓、
要川(★待居川:源氏を待ち受けた平氏の側に立って命名された名前といわれる。)
で文字通り最後の決戦に挑んだ。
しかし、琴平山に大物見を設け源氏の軍兵を待ち受ける平家武将の中で、
勝てるという見込みを持った者はおそらく一人もいなかったと思われる。
必敗の勝負に挑む将兵が物見から見つめていたものは、時の運に見放された平家一門の歩んできた道であった。
そして、平家は、雲霞のごとく押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく
中原の戦いで決定的な敗北を喫した。
川原は平家武将の屍で埋まり、要川はみるみる血で染まったと伝えられる。
平家の姫君たちは、もはや逃げることも叶わず四方を断崖に囲まれた中原の奥深くの森に分け入り、
今を限りと瀧に身を投じた。
これが「七霊の瀧」のいわれであり、そばに「七霊宮」がひっそりと立つ。
里の人は、姫君たちが鯰に変身したと信じた。
また、落武者となった五人の平家武士は肥後の山奥の五家荘へ、また六人は柳川沖の端に逃れ永住した。
今も、柳川北原白秋記念館のすぐそばの「六騎」という地に、
浦河・難波・若宮・是永・加藤・鳴神の各家が残っている
(注:山川町谷軒に平家の血を引く「加藤」家がある)。
さらに、落ちのびることもできず、山の中に隠れ住んだ一党は、数年の間昼は森に潜み、
暗くなると食べ物を探しに山を降りるという生活を続けた。
おそらくは、田尻氏の配慮を得ての逃避生活であったであろう。
やがて、追っ手の姿が見えなくなると里の人とも言葉を交わすようになった。
しかし、名前を正直に言うこともできずに、平姓を「坂無」という名に秘した。
現在、高田町亀谷地区に「平」テーラという集落があり、二十戸のうち十八戸が坂梨姓である。
「現人神」を祀り、毎年四月十六日に法要を営んでいる。
十善戒行の力により帝位に即いた万乗の君ですら、運が尽きたときにはただ粛然とその道を歩まねばならない。
たとえ寺社であろうと、運が尽きたときは滅亡の危機に瀕する。
平家に味方した山門清水寺は、豊後の緒方三郎の手によって焼き討ちにあった。
・「七霊宮」から続く山道は、桜峠を経て矢部谷峠近くに至る。
山の向こうにも桐葉・鹿伏など平家ゆかりの部落が散在する。
・山川町には、「谷軒」「五位軒」などに平家ゆかりの一族が住んでいる。
[資料6]筑後市の平家伝説
参考資料:『筑後市史』
光明寺:安元元年1175平重盛によって建立。
宗清寺:筑後市大字鶴田 開祖は、平宗清。
伝承「平治の乱1159で敗れた源義朝は、平清盛によって誅せられた。
子供の頼朝は平宗清にあずけられた。宗清のとりなしにより、
清盛の母池禅尼は清盛に頼朝の助命を嘆願し、頼朝は死を免れた。
しかし、その頼朝の手で平家一族が滅ぼされ、諸行無常の理を悟った平宗清は、
かって九州鎮西の役人として住んだことのある筑後に下り、そこで平家残党の霊を慰めて塚を造り、
筑後市の尾島に念仏道場のための庵を建て、平家一門の冥福を祈った。
宗清の没後360年を経て、元亀年中1570-1573専誉上人は庵を寺として建て直した。
尾島から鶴田に移築されたのは、慶長十七年1612である。
このほか『筑後秘鑑』には筑後市中牟田の養林山西光寺の項に「昔長島八郎助高と云人寺領を寄附せり、
助高は平家の士にて順徳院の御宇実朝将軍の時の人なり」、
同所の両天神社に
「助高天神盛高天神長嶋兄弟の人を祭れり」とし、馬問田村の北にあるという井口紀伊守館跡の項に
「平家の士とも云ふ、時代知れず、井口の子孫当村にあり」
とも記している。
また筑後市
「秋松村の内にて瀬高福島道追分の東方三昧の内にあり」
として
「平家塚 寿永の乱、長門国壇の浦にて亡びし平家残党鎮西へ逃来しを三河守範頼鎮西へ逗留し、
平家の残党此所にて追討せし者多し。下妻郡尾島町に在る市の塚に同じ」
と秋松の赤井手とは別の伝説を伝えている。
寛延二年1749の久留米藩庄屋書上、
いわゆる『寛延記』にも、筑後市「今寺村」の項に
「安元年中小松内大臣重盛公御建立、右の九重塔干今御座候」
尾嶋村の
「一向宗興満寺此寺前は下妻郡常用村へ結少庵罷在候処、延宝三年辰年当処へ引移居住被仕候。
此処古戦場ニ而死骸ヲ埋候由ニ而墳弐ツ残リ居申候。
右の内壱ツハ薮之内ニ浅山小次郎塚卜申侯。
俗言ニ申伝候は寿永年中、長州壇ノ浦合戦ニ而被打洩候残党、此処ニ而又戦侯由、
其内之大将討死の塚と申伝、
辞世 武士の命をうるや市の塚、立初日よりかふと思へば、と被詠侯由申伝候」、
鶴田村の
「安福山林鐘院 浄土宗宗清寺 由来 平僕射兼羽林盛公征西之日家
臣兵衛府宗清往反九紫之暇、寄宿干当郷市塚(故駅道、古戦場)、
〆於地之幽遂而創興蘭若、後移鶴田村為当寺安置無量寿像以擬二世之之資福(治承年中也)」
と大同小異の伝説を記している。
宗清寺について先記した『筑後志』にも
「一之塚 下妻郡尾島村に在り。伝へいふ。
往昔寿永の戦争に、長州壇浦の軍敗れ、平氏の残党奔走して、
此地に来り斬戮せらるる著数を知らず。其骸骨を聚めて同穴に埋め、
塚墳を築くこと五六箇と、其側に一墳墓あり。号じて浅山小次郎の塚といふ。
古老の伝説にいふ。浅山ほ平氏の余類にて、壇浦の敗卒を率いて、漸く此処に落来り、
終に運つきて此の一之塚にて生害す。浅山嘗て剣に伏す時、
和歌を詠じて辞世とす。其の辞に曰く、
武士の命を売るや市の塚
立そめしよりかうと思へば」
『稿本八女郡史』(大正六年刊)には
「羽犬塚町秋松」の
「赤井手 秋松の溝筋を云ふ。平家の落人防戦の時、血流れ水紅となり、赤旗井手に掛りし故、赤井手と云ふ」
とし、
「水田村尾島」の
「尾島市塚合戦 此地前後二回の古戦場にして、前役は寿永年間とし、後役は天授二年とす。
寿永年間、平氏の一族長州檀浦に敗北し、其残党奔走して此地に到る。
三河守範頼鎮西に逗留して落武者を追伐し、或は刎首するもの数を知らず。
其屍骸を同穴に埋む。一の塚二の塚即ち是なり。
延宝年中近邑尾島村里民、此地を開墾して市店を溝へ旅邸の駅路となさんと欲し、
官に乞ふて一二の塚の古墳を発アバきしに、許多アマタの甲胃刀鏃の朽ちたるを得たりと云へり。
(中略)此外平氏の遺蹟は、本郡にては水田村大字津嶋今寺の光明寺、
古川村大字鶴田の宗清寺、八幡村大字新庄今山名の荒人神社、同村大字平等なり」
とし、典拠は、『筑後秘鑑』『筑後地鑑』『寛延記』『筑後誌』であるとしている。
典拠の一つ『筑後誌』(安永六年1777刊)には、筑後市鶴田の宗清寺について
「古老伝へいふ。平家の侍、弥平兵衛の宗清建立する所なりと。
然れども記文泯滅ビンメツして、其伝説詳ならず」
とする。
これより先、天和二年1682に書かれたという『筑後地鑑』にも下妻郡・尾島町の項に
「伝へ聞ク、昔年寿永ノ騒乱二平氏ノ一族、長州ノ壇浦ニ於テ鏖殺(オウサツ)セラレ、
残党ノ奔走シテ此地ニ到り、斬首セラレシモノ数を知ラズ、故ニ其骸骨ヲ以テ同穴ニ埋ム。
高墓ナル者五六箇、其側ニ一丘墓アリ、浅山小次郎ノ塚卜日フ。
其辞世ニ曰ク、〔武士ノ命ヲ売ルヤ市ノ塚立初メヨリ加ウト思ヘハ〕、
故老ノ口端ニ在リテ、今ニ失ハレズ。
頃ロ延宝年中、近邑尾島村ノ里民、此処ヲ闢キ、市廛イチテン(家のこと)ヲ構へテ、
往還旅程ノ駅路卜為サント欲シ、官ニ言シ、郡司ニ乞ヒテ町ヲ為スモノ百余家。此時古塚ヲ発キテ、
甲冑刀鏃許多ヲ出セリ。五百歳ノ昔ヲ歴タリト雖モ、之ヲ視レハ今日ノ如ク、衆皆涙潜然タリ」
とし、続けて
「叡空山光明寺、今寺村ニ在リ、千手観音ヲ安置ス。真言宗ノ古跡ナリ。
小松内大臣平重盛建立ス。寺物宝器存スルモノナシ。今無縁ノ地タリ。
坊舎悉ク野民ノ居宅卜成ル。唯大般若経一部残リテ今二在ルノミ。惜哉」
と記している。
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