コード ケン マチ   メイ 関係カンケイ事項ジコウ 登場トウジョウ人物ジンブツ ウチ             カタチ
1001 熊本クマモト 天草アマクサ 有明町アリアケチョウ タイ   タイ重盛シゲモリ 源平ゲンペイ合戦ガッセンヤブれたタイ重盛シゲモリシタウラにきた。その,ギオンヤマカクれた。そこを,「タイ」とぶようになった。
1002 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 瀬戸セト 平家落人 ダンウラ合戦ガッセンヤブれた平家ヘイケグンは,九州キュウシュウ四散シサン
一部イチブは,天草アマクサ上島ウエシマシタシマ東海岸ヒガシカイガンヒソめた。
1003 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ アカサキウラ 平家落人 源氏ゲンジガタは,天草アマクサノガれた平氏ヘイシ掃討ソウトウタタカいがハジめた。平氏ヘイシ海戦カイセンイドんだ。源氏ゲンジは,リクカイ二手フタテからせる。第二ダイニダンウラタタカいも源氏方ゲンジガタ勝利ショウリとなった。瀬戸セト平氏ヘイシ死体シタイフサがり,源氏ゲンジグンうことができなかった。
1004 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 横島ヨコシマ   平家落人 赤崎アカサキウラタタカいでヤブれた平氏ヘイシ武将ブショウたちは横島ヨコシマ上陸ジョウリクし,そこにんだ。イシホコラノコっている。
1005 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 瀬戸セト 平家落人 アメにはアヤアラワれる。これは,アカサキウラタタカいでんだ平氏ヘイシ亡霊ボウレイである。
1006 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 瀬戸セト 平家落人 瀬戸セトを,「フサぎの瀬戸セト」とぶ。そのいわれは,ここで源氏ゲンジ平氏ヘイシとがタタカい,死亡シボウした平氏ヘイシグン死体シタイによって瀬戸セトフサがったからである。
1007 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ クラダケイワ 平家落人 天草アマクサ第一ダイイチ高峰コウホウクラダケ巨大キョダイ岩石ガンセキがあり,その北面ホクメンは3ジョウほどのになっていて巨石キョセキ屋根ヤネのようにカブさっている。ここは,平家ヘイケカクんだトコロであり,ショアトわれる。
1008 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ アカサキ 大将タイショウ フサぎの瀬戸セト」のタタカいでにした平氏ヘイシ大将タイショウハカが,赤崎アカサキ東側ヒガシガワ山中サンチュウにある。「とんのハカ」とばれている。「とん」は「殿ドノ」である。
1009 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 松ヶ鼻マツガハナ マツヒメ 平家落人が芦北アシキタから天草アマクサトウびるとき,マツヒメという身分ミブンタカ武将ブショウヒメ同行ドウコウしていた。フネ大道ダイドウ南方ミナミガタたときついに息絶イキタえたので,ミサキ遺体イタイをおろした。それ以来イライ,そのミサキを「松ヶ鼻マツガハナ」とぶようになった。
1010 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 梅戸ウメド マツヒメ マツヒメ源氏ゲンジ多田タダ蔵人クロウドツナムスメであり,絶世ゼッセイ美人ビジンであった。薩摩サツマ名護ナゴから天草アマクサまでノガれてきた。フナイクサとなり,チチツナとともに
1011 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 梅戸ウメド マツヒメ 黒田家の先祖が梅戸の山に入ったとき,渚の方で声がする。行ってみると,戸板の上に美人の首が乗っていた。鈴虫スズムシのようなコエウタいだした。そこでホコラててマツった。
1012 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 御所ゴショウラシマ 俊寛シュンカンなど 鹿シカタニヘンにより,藤原フジワラオヤ俊寛シュンカンタイヤスタノオニカイシマ硫黄イオウトウ)にナガした。しかし,実際ジッサイナガされたのは御所浦ゴショウラシマであった。
1013 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 瀬戸セト目崎メサキ ミナモトツナ 鹿シカタニヘン密告ミッコクにより平氏ヘイシせたミナモトツナは,平氏ヘイシ残党ザントウとともに天草アマクサ御所ゴショウラノガれた。瀬戸セト目崎メサキツナハカノコる。
1014 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 瀬戸セト目崎メサキ ミナモトツナツマ ミナモトツナツマは,フサぎの瀬戸セト赤崎アカサキフナイクサウミシズんだ。西ニシサキナガいて,ナギサヨコたわっていた。そこにてて「若宮ワカミヤサマ」とづけウヤマった。
1015 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ ヨコシマ 弁慶ベンケイヤマ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイヤマは,弁慶ベンケイがこのシマんだことに由来ユライする。
1016 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 長浦ナガウラ 義経ヨシツネ 義経ヨシツネ牧島マキシマ長浦ナガウラフネカクしていたので,そこを「フネカクし」という。
1017 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 横浦ヨコウラシマ 与一ヨイチウラ 那須ナス与一ヨイチ 牧島マキシマ那須ナス与一ヨイチがやってきたので,東側ヒガシガワを「与一ヨイチウラ」とづけた。
1018 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 頼朝ヨリトモ ミナモト頼朝ヨリトモ 与一ヨイチウラ」から「横浦ヨコウラ」へえるトウゲミチを「頼朝ヨリトモえ」という。
1019 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 弁慶ベンケイヤマ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイヤマ頂上チョウジョウには,9ニン平家ヘイケ落人オチウドハカがある。
1020 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 長浦ナガウラ 平家ヘイケ落人オチウド 長浦ナガウラの「フナカクし」は,平家落人がカクんだところである。
1021 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 長浦ナガウラ 平家ヘイケ落人オチウド 平家落人は,ヤマウエ見張ミハりをいた。その場所バショを,「二度ニドウラ」とんでいる。
1022 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 境目サカイメ古墳コフン 安徳アントク天皇テンノウ 境目サカイメ国道コクドウヨコオカに「鬼塚オニヅカ」がある。これは,平家ヘイケ落人オチウドハカである。安徳アントク天皇テンノウハカともいわれている。
1023 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 源義経ミナモトノヨシツネ 源義経ミナモトノヨシツネは,頼朝ヨリトモ勘気カンキにふれて追討ツイトウされ,天草アマクサトウ宮田ミヤタムラノガれてきた。
1024 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 源義経ミナモトノヨシツネ ミナモト義経ヨシツネは,3ニン子供コドモんだ。木津キヅハラ大宮オオミヤ西ニシハラにわけてんだのが宮田ミヤタハジまりである。
1025 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 源義経ミナモトノヨシツネ 大宮田オオミヤタ中村ナカムライエには,弁慶ベンケイ文書ブンショホンがある。
1026 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイんでいたところから,金塊キンカイた。
1027 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 弁慶ベンケイ 十五15シャミヤ弁慶ベンケイ再建サイケン
1028 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 弁慶ベンケイ 代々ダイダイ庄屋ショウヤをつとめた中村ナカムライエは,弁慶ベンケイ末裔マツエイである。
1029 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ タナゾコ けさがウラ おけさ 平家落人のムスメおけさは,タコをつけ毎日マイニチホンずつカマってべていた。最後サイゴ一本イッポンカマっていかなかった。たこは,おけさをウミんだ。おけさのは,毎日マイニチハハシタっていていた。
1030 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 栖本町スモトマチ 山浦ヤマウラ リュウクチ 佐藤サトウシン リュウクチ佐藤サトウは,平家ヘイケ落人オチウド佐藤サトウシン佐藤サトウ経信ケイシン佐藤サトウ唯信タダノブ末裔マツエイである。ムカシは,乗馬用ジョウバヨウウマ,さらにカタナヤリっていた。
1031 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 栖本町スモトマチ   ハマ集落シュウラク 平家落人 ハマ集落シュウラク突端トッタンを「ドブネ」という。ここには,平家ヘイケ落人オチウドハカが3〜4ハタケナカノコっている。
1032 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナ 石碑セキヒホトケガミサマ」のたっているとこは,ミナモトツナ居住キョジュウアトである。ツナは,平氏ヘイシ敗退ハイタイにより,このノガれてきた。
1033 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ   シキジマ ミナモトツナ 源行綱がノガれてきたシマ
1034 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスウラマチ 下浦シモウラ ツカシマ ミナモトツナ 源行モトユキ綱が,シキジマからノガれてきた。源氏ゲンジタタカったが,部下ブカオオくはをした。そのため,ツカシマぶようになった。
1035 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナムスメ ミナモトツナムスメツマ?)のマツヒメとともにこのノガれてきて,カクんだ。9ガツ20祭礼サイレイオコナう。
1036 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナ 源行綱由来ユライケンヤリとが発掘ハックツされた。ケン行方ユクエ不明フメイになった。ヤリは,青年セイネン管理カンリ
1037 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナ 源行綱由来ユライツボ発掘ハックツされた。古墳コフンマモっていた石井イシイツマウミアラったところ,ウミイロわった。
1038 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ   平家ヘイケ 平家ヘイケ落人オチウド 源平ゲンペイ合戦ガッセンヤブれた平家ヘイケ落人オチウドが,フネをつけたところ。カクれていた。源氏ゲンジは,天草アマクサまでサガしにきた。
1039 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスノキウラマチ カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨヘイ カタハラカワマツリフチ上流ジョウリュウを開拓をしたのは,浦上氏である。イマも,他氏タシとはチガった祭礼サイレイイトナんでいる。
1040 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 宮地ミヤジダケ 長迫ナガサコ カタハラカワ やんぼしさん やんぼしさん(平家ヘイケ落人オチウド)が祈祷キトウをしたりエキたりして村人ムラビトから感謝カンシャされていた。あるとき,帽子ボウシダケフモトコロされているのがつかった。村人ムラビトは,若宮ワカミヤとしてマツった。キュウガツ28命日メイニチである。
1041 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスウラマチ カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨ兵衛ヒョウエ 平家ヘイケ落人オチウド浦上ウラガミキヨヘイカタハラガワサカノボり,このヒラいた。キヨヘイハカは,イマノコっている。
1042 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスウラマチ カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨ兵衛ヒョウエ 開祖カイソキヨヘイは「きりあけどん」とばれている。カタハラの「マツリフチ」までくるとタキフチ大蛇ダイジャがいて,トオることができない。そこで,子々孫々シシソンソンアキれのにしとぎと甘酒アマザケソナえることを約束ヤクソクしてトオしてもらった。
1043 熊本クマモト 本渡市ホンドシ   カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨ兵衛ヒョウエ 「きりあけどん」のイエは,現在ゲンザイ浦上ウラガミタイさんのところである。
1044 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 苓北レイホクチョウ 木場キバ ミヤコカワ 平家ヘイケ落人オチウド 木場キバタケミヤコカワのほとりに,フルぼけたツカがある。これは,平家ヘイケ落人オチウドがここまでナガれてきてなくなってきたためにキズいたものである。
1045 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 苓北町レイホクマチ 富岡トミオカ 鳥越トリゴエ 弁慶ベンケイ 鳥越トリゴエハタケナカ巨石キョセキがある。このイシのくぼみは,弁慶ベンケイ手形テガタである。弁慶ベンケイ富岡トミオカたときに,関取セキトリ力比チカラクラべをした。関取セキトリげることができなかったが,弁慶ベンケイ右手ミギテ軽々カルガルげた。そのときのアトである。
1046 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウオツラヌマチ フク 里浦サトウラワン 山口ヤマグチ五郎ゴロウヒダリモン 平家ヘイケ落人オチウド里浦サトウラワンノガれてきて,「カク」に上陸ジョウリク。そこからフクいた。先祖センゾ名前ナマエは,山口ヤマグチ五郎ゴロウヒダリモンという。平家ヘイケブシ多数タスウ同行ドウコウしていた。
1047 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウオツラヌマチ   里浦サトウラワン 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクんだため,里浦サトウラワンを「カク」とんでいる。この付近フキンからは,フルカタナカブト発掘ハックツされたことがある。
1048 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウオツラヌマチ   ナカウラ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドフネカクしたところである。
1049 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ スガ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドが,芦北アシキタからノガれてきた。そこを,イマでは「屋敷ヤシキのくぼ」とんでいる。
1050 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ ハシラダケ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドがこのヤマナカんだが,悪者ワルモノのために下平シモヒラいやられた。落人オチウドたちは,「ドウ」にカクれた。そこで,このを「水道スイドウ」(みど)とぶようになった。
1051 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ   平家ヘイケ落人オチウド 水道スイドウ」にいつめられた平家ヘイケ落人オチウドは,いつめられて下平シモヒラテラカクれた。そのを,「テラセマ」とぶ。
1052 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ   平家ヘイケ落人オチウド 落人オチウド一族イチゾクは,下平シモヒラから鹿児島県カゴシマケン長島ナガシマへ,ツルギててオヨいでげていった。ケンてたところを「ツルギサキ」という。
1053 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 河浦カワウラマチ 宮野ミヤノ 河内カワチ 三宅ミヤケイエ 平家ヘイケ落人オチウドウミワタっていた。そのとき,フネ座礁ザショウした。「つがね」の大群タイグンアラワれ,あわでフネかせてくれたのでナンノガれることができた。それ以来イライ三宅ミヤケ人間ニンゲンは「つがね」をべない。
1054 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 牛深ウシブカマチ 宮崎ミヤザキ ナミダガワ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイ牛若丸ウシワカマルヤブ牛草ウシクサ辿タドいた。宮崎ミヤザキイワウエクヤナミダナガした。そのナミダカワになったので「ナミダガワ」とばれるようになった。このミズむと,子供コドモ病気ビョウキカカらない。
1055 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 牛深ウシブカマチ 宮崎ミヤザキ ナミダガワ 弁慶ベンケイ ナミダガワ源流ゲンリュウにある岩の上には,弁慶の足跡と金玉の型が残っていた。
1056 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウラマチ ヒツジカクワン カメウラワン 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクんでいた。源氏ゲンジってきたため,四角シカクハコタカラれて海底カイテイシズんだ。イシのそばによると,不思議フシギサカナってきて,ハコけることができない。
1057 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 牛深町ウシブカマチ 大島オオシマ 厳島イツクシマ神社ジンジャ 矢田ヤダキチヒダリモン 平家ヘイケ落人オチウド矢田ヤダキチヒダリモンツマのチヨがいたのがハジまり。氏神ウジガミは,厳島イツクシマ神社ジンジャ
1058 熊本クマモト 宇土郡ウトグン グンウラ マキヤマ マキ大明神ダイミョウジンシャ イケツキ 佐々木ササキタカツナ頼朝ヨリトモからタマワった名馬メイバイケツキは,牧山マキヤマソダったウマである。
1059 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 御船町ミフネマチ 横野ヨコノ 玉虫タマムシ御前ゴゼンハカ 玉虫タマムシ タイオモ肥後ヒゴクニ知行チギョウしているときに,横野ヨコノオオタルキというモノムスメ玉虫タマムシ六波羅ロクハラされた。西海サイカイにて義経ヨシツネわれたとき船の上から那須与一に扇を射るよう手招きした。玉虫タマムシは,そのふるさとにカエり,アマとなって平家ヘイケ一族イチゾク菩提ボダイトムラった。玉虫タマムシマツホコラがある。
1060 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 御船町ミフネマチ 7タキ 7タキ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドマツる。
1061 熊本クマモト ウエ益城マシキグン キタ上野ウエノムラ   7タキ 平家ヘイケ官女カンジョ タキタカさ,三十30ケンハバ六十60ケンフカ34ケン平家ヘイケ没落ボツラクトキ一族イチゾク官女カンジョ7ニンがこのタキシズめ,7ヒキヘビした。紅色ベニイロハナやかなコロモカゲ水面ミナモウツると,たちまちクモ天候テンコウれるといわれていた。
1062 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 菅村スガムラ   オンカガミタイヤシロ タイオモ 寿永ジュエイ年中ネンチュウ平家ヘイケ没落ボツラクトキtオモ大山オオヤマカクれ,寿永ジュエイ年中ネンチュウ安徳アントク天皇テンノウ入水ジュスイしてノチ,このカクんだ。このヤシロは,ヤカタアトである。江戸エド時代ジダイまでは,オモもあった。
1063 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 矢部町ヤベマチ 大矢野原オオヤノハラ 小松コマツトウ tオモ 里岩に高さ0.6mの塔が立っている。この塔は、「小松の塔」と呼ばれる。文治元年(1185)頃に壇ノ浦で敗れた平家の一門がここを落ちのびていくときに、幼い姫が死んだので葬った跡という。その姫君は、平重盛の娘であった。
1064 熊本クマモト ウエ益城マシキグン キヨムラ 緑川ミドリカワ ワシミネテラ 安徳アントク天皇テンノウ 小塚山中に安徳天皇御陵と伝えられる御陵がある。石垣をめぐらした側に大きな檜ヒノキが聳え、これが陵標だと伝えられている。この陵墓の南側に天皇の菩提寺であった鷲峰寺跡があり、現在の地名はその名にちなんだものとなっている。
1065 熊本クマモト 宇土市ウトシ 立岡タテオカマチ   安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボ 安徳アントク天皇テンノウ 宮内庁クナイチョウ管轄カンカツ安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボがある。
1066 熊本クマモト 宇土市ウトシ 立岡タテオカマチ   タイ資盛トシモリハカ タイ資盛トシモリ タイ資盛トシモリ墳墓フンボがあった。ツツミイケカタワらからされた石棺セキカンに「イリ資盛トシモリ」の4キザまれていた。
1067 熊本クマモト 宇土市ウトシ 立岡タテオカマチ   乳母ウバハカ 乳母ウバ 乳母ウバハカ」があったが,道路ドウロ補修ホシュウ工事コウジ消滅ショウメツした。
1068 熊本クマモト 荒尾市アラオシ カバ ニワテラ   タイ重盛シゲモリ ニワテラは,保元ホウゲン元年ガンネン(1156)に小松コマツナイタイ重盛シゲモリによって天台宗テンダイシュウ比叡山ヒエイザン末寺マツジとして建立コンリュウ往時オウジには,四十四44ボウカゾえた。
1069 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 野田ノダ   平家ヘイケ落人オチウド 源平ゲンペイタタカいにヤブれた平家ヘイケ落人オチウド平野ヒラノヤマサダハヤシテラてた。平野ヒラノ佐久サク(ひらのさくすけ)のハカノコっている。
1070 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 岩村イワムラ 岩村イワムラ阿蘇アソ神社ジンジャ 荒巻アラマキオオゼン タイサダノウ家臣カシン荒巻アラマキオオゼン寿永ジュエイネン11ガツ(1183)に,岩村イワムラ阿蘇アソ神社ジンジャ勧請カンジョウ岩村イワムラには,菊池キクチタカチョク再興サイコウしたゴウ阿蘇アソ神社ジンジャがたっており,ムラフタつの阿蘇アソ神社ジンジャという異例イレイ形式ケイシキになっている。菊池ガワ平家ヘイケ伝承デンショウとして注目チュウモクすべきか?
1071 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 岩村イワムラ 松尾マツオ大明神ダイミョウジン 荒巻アラマキオオゼン タイサダノウ家臣カシン荒巻アラマキオオゼンによって勧請カンジョウされた松尾マツオダイ明神ミョウジン勧請カンジョウされている。カワヘダてて岩村イワムラ阿蘇アソ神社ジンジャがたっている。
1072 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 岩村イワムラ 宝塔ホウトウ タイアサシン景秋カゲアキ タイアサシン景秋カゲアキによって,中世チュウセイ末期マッキ平家ヘイケ由来ユライ宝塔ホウトウ建立コンリュウされた。「殿様トノサマハカ」もたっている(中世チュウセイマツ?)
1073 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ イタクス ウエイタクス神社ジンジャ 梶原カジハラカゲルスエ 文治ブンジネン(1189)岡原オカハラシロシュ梶原カジハラカゲルスエキザまれた碑文ヒブンがたっている。梶原カジハラ景時カゲトキカゲルスエは,板楠イタクス一族イチゾクである。
1074 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 豊前ブゼン街道カイドウ 腹切ハラキサカ 平家ヘイケ落人オチウド このサカまでびてきた平家ヘイケ落人オチウドが,ここでチカラつきてハラっててたことから「腹切ハラキサカ」とばれるようになった。
1075 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 10マチカワ 平家ヘイケフチ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドがこのフチトウじてんだ。以来イライ,このフチを「平家ヘイケフチ」とぶようになった。
1076 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 菊水町キクスイマチ 久井ヒサイハラ   平家ヘイケ落人オチウド 深草フカクサ一族イチゾクは,平家ヘイケナガれをくむ。深草フカクサ義方ヨシカタ久井原ヒサイバルふかくさ物語モノガタリ』1979ネン9ガツ深草フカクサ義方ヨシカタ全国ゼンコク深草フカクサ同族ドウゾク会報カイホウ』1984ネン1ガツ
1077 熊本クマモト 鹿本郡カモトグン 鹿央町カオウマチ 千田センダ 聖母セイボ八幡宮ハチマングウ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン遺髪イハツオサめる宝篋印塔がある。
1078 熊本クマモト 鹿本郡カモトグン 鹿本町カモトマチ タミ tオモハカ tオモ 御宇田ミウタの実際寺ジッサイジに、法筺印塔ホウキョウイントウがある。昔、平家滅亡後に平貞能がこの地に勢力を持っていた御宇田氏を頼ってきたときに、この塔を建てて菩提を弔ったという。また、重盛の家来の大橋三左衛門がひそかに重盛の遺骨を埋めて、墓を建てたとも伝えられている。
1079 熊本クマモト 球磨郡クマグン 五木村イツキムラ     平家ヘイケ落人オチウド 33ケン旦那ダンナシュウによって構成コウセイされる。旦那ダンナシュウ名前ナマエは,土肥ドヒ黒木クロキ土屋ツチヤ田山タヤマ梶原カジハラ緒方オガタなどでる。梶原カジハラ和田ワダ土肥ドヒは,源氏ゲンジ一族イチゾク名前ナマエとされる。梶原カジハラ伝説デンセツは,熊本県クマモトケン三加和町ミカワマチにもある。
1080 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド ヒサレンシイハラ仁田ニッタモミ部落ブラクによって構成コウセイされる。仁多ニタモミは,菅原スガワラ道真ミチザネ後裔コウエイとされる。道真ミチザネ後裔コウエイは,ヒダリ(ぞうざ)を名乗ナノってき,欄間ランマには菅原スガワラ家紋カモンウメハチってある。
1081 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド 茶臼山チャウスヤマフモトシイハラには,旦那ダンナシュウ緒方オガタんでいる。旦那ダンナシタには,御隠居ゴインキョ百姓ヒャクショウアタマ年寄トシヨというムラ三役サンヤクがあった。旦那ダンナイエは,玄関ゲンカンきの書院造ショインヅクりであった。
1082 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド 緒方オガタは,タイキヨ経の子孫である。豊前の柳浦で入水というのは実はウソであって,実は豊後に隠れ,緒方左馬助実国に頼り,その娘を妻として緒方一郎清国と称した。建長2年(1250)3月13日に,曾孫の紀四郎盛幸・三郎近盛・兵部実明の3人は源氏の捜索を避け,山賊の助けを求めながら八代郡白鳥山に隠れ住んだ。その後この3人は,それぞれ,久連子・椎原・葉木の3家に分かれた。
1083 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド ヒサレン平盛ヒラモリイエに,由来ユライショツタわっている。平盛ヒラモリは,もとは緒方オガタセイであったが明治メイジになって改名カイメイした。由来ユライショには,主従シュジュウニンがそれぞれ二人フタリずつミナミダケ西ニシダケキタダケにわかれて開墾カイコンしたとされている。
1084 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ ドウサカ 平家ヘイケ落人オチウド 肥後ヒゴの菊池氏の家臣が川辺川に沿って歩いていたところ,川上から椀が流れてきた。不思議に思って川を溯ると,山中深くに焼畑を発見した。しばらく様子をうかがい,人影を見つけたので近づいたところ,清水橋付近で五家荘の者に迎え討たれた。清水橋付近に,「胴切り坂」がある。
1085 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ 仁田尾ニタオ 平家ヘイケ落人オチウド 仁田ニッタ旦那ダンナであるクライエには,由来ユライショツタわっている。
1086 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ 平家ヘイケオド 平家ヘイケ落人オチウド 毎年マイネン七夕タナバタとおボンには,平家ヘイケオドりがモヨオされる。「タカヤマよ オモいをかきう オモわばいゆめて ユメにもせよ」。オドたちは,シロ長袖ナガソデ紫色ムラサキイロハカマをはき,アカトリカサカムる。十八18になると,未婚ミコンでもめた。
1087 熊本クマモト 球磨郡クマグン ミズ上村カミムラ 古屋敷フルヤシキ   平家ヘイケ落人オチウド 人吉ヒトヨシ盆地ボンチサイオクにある「古屋敷フルヤシキ」は,平家ヘイケ落人オチウド集落シュウラクである。
1088 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 平清盛の孫の平清経らが平家の残党とともに豊後竹田に入り,緒方三良実国の養子となった。高千穂から緑川渓谷ぞいに今の内大臣あたりを遡行。国見岳から向霧立山地の尾根伝いに南下し,白鳥山(1639m)に館を構えた
1089 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 現在の白鳥山から500m北の御池あたりに,左中将平清経が約72年間んだ。
1090 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 平重盛が所有していた「白鳥之鎗」を,三男の平清経が受け継ぎ持参したため,「白鳥山」の名がついた
1091 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 左中将平清経は緒方市郎清国と改姓カイセイした。その曽孫にあたる緒方盛幸・近盛・実明の三見弟は,白鳥山の御池を出て,椎原・久連子・葉木にそれぞれ分住した。
1092 熊本クマモト 木山キヤマゴウ 福原フクハラムラ   トラ御前ゴゼントウ トラ御前ゴゼン 福原フクハラヤマウエフルツカがあった。そこに,センカエカエハカとともにトラ御前ゴゼンハカがあった。
1093 熊本クマモト   木原キハラムラ 木原キハラヤマ ガンマワヤマ ミナモトタメアサ 鎮西チンゼイ八郎ハチロウタメアサザイシロガン射落イオとしたため,ミネウエガン乱行ランギョウした。そのため,このヤマカリマワリサンぶようになった。
1094 熊本クマモト   木原キハラムラ 木原キハラヤマ ロク殿デン大明神ダイミョウジンミヤ tオモ 治承ジショウネンナカ小松コマツナイ重盛シゲモリ武州ブシュウロクマゴオウ権現ゴンゲン勘定カンジョウした。阿蘇アソ神社ジンジャ末社マッシャである。(阿蘇アソ十二12シャのうち,6ミヤ勧請カンジョウしたとのセツもある
1095 熊本クマモト   木原キハラムラ 木原キハラヤマ ガンマワヤマ海上カイジョウテラ キョウ 治承ジショウ年中ネンチュウに,丹波タンバ少将ショウショウキョウががオニカイシマからラク途中トチュウこの逗留トウリュウし,このテラ建立コンリュウした。
1096 熊本クマモト 山本郡ヤマモトグン ムラ キチトウゲ キチハカ 吉次ヨシジ ミナモト義経ヨシツネ奥州オウシュウミチビいたカネキチは,諸国ショコクメグっていた。この強盗ゴウトウにあいイノチとした。その墳墓フンボヤマウエにあるため,このトウゲキチトウゲばれるようになった。
1097 熊本クマモト 阿蘇郡アソグン 蘇陽町ソヨウマチ カシワ 那須ナス与一ヨイチハカ 那須ナス与一ヨイチ 那須家は、余一の子孫。
ハカは,高さ1.5m幅約0.9mの自然石。文字の判別はできない。
近くのお堂に、余一の愛刀「百足丸」ムカデマルが納められている
1098 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ ホウキョウイントウ 俊寛シュンカン 俊寛シュンカンオニカイシマからノガれてんでいたところ。俊寛シュンカンハカがある。
1099 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ   オウカメオウ 俊寛シュンカン僧都ソウズ介抱カイホウしたオウカメオウハカは,ホウテラより東北トウホクチョウあまりサキにあるナカ小高コダカである。
1100 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ   がま 俊寛シュンカン僧都ソウズオニカイシマにいたときタノしくらしていたがまは,俊寛シュンカン没後ボツゴカナしいコエであまりにもなくので,住職ジュウショクげつけたところ,アシが1ポンれた。そのまま,化石カセキになってノコっている。
1101 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ ホウキョウイントウ 俊寛シュンカン 俊寛シュンカンは,治承ジショウ4ネン3ガツ23に37サイでこのボッした。
1102 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ   俊寛シュンカン カタりをおこなうモウ法師ホウシたちがアツまっていた。
1103 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ     荒木アラキカン入道ニュウドウ 嘉瀬カセショウタイオシモリ領地リョウチであり,荒木アラキカン入道ニュウドウキョウモリ女婿ジョセイ藤原フジワラシゲルキョウ生活セイカツ物資ブッシオクっていた。
1104 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ     藤原フジワラキョウタイラヤスシタヨル 治承ジショウネン(1178)。藤原フジワラキョウヒラヤスシタヨル赦免シャメンになったとき,嘉瀬カセリツムカえた。
1105 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ     俊寛シュンカン 藤原成経と平康頼が赦免になったとき,俊寛シュンカン一緒イッショにやってきた。
1106 佐賀サガ 鳥栖市トスシ ウマハラマチ   シタ水天宮スイテングウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマナガれてきたところ。
1107 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ潜幸センコウ天皇テンノウわりに入水ニュウスイしたヒト鎮魂チンコンのために小竹オダケマツりをモヨオす。
1108 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマ立石タテイシミギ衛門エモンカクマわれて,肥前ヒゼン松山マツヤマカクんだ。
1109 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,立石タテイシミギ衛門エモン子息シソク義次ヨシジトモソダった。
1110 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ源氏ゲンジわれフネげる。いついた義経ヨシツネは,安徳アントク天皇テンノウノガす。
1111 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 源氏ゲンジからノガれた安徳アントク天皇テンノウは,シタ記念キネンクスノキををえた。ヨシツギは,チャえ,トモサカえることをイノった。
1112 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 藤吉フジヨシタネは,安徳アントク天皇テンノウ学問ガクモンサズけた。
1113 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,藤吉フジヨシタネムスメ千代チヨとのアイダ男児ダンジむ。
1114 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウが25サイトキ発病ハツビョウ。(28サイ天然痘テンネントウセツもあり)
1115 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 立石タテイシミギ衛門エモンタノみで5文字モジノコし,「これをマモりにせよ」と崩御ホウギョ
1116 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ   水天宮スイテングウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウから大宮司ダイグウジ世襲セシュウするようメイじられた立石タテイシチュウミギ衛門エモン葬儀ソウギををツカサドった。
1117 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ   水天宮スイテングウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ崩御ホウギョしたツギトシ二位ニイアマ死亡シボウした。水天宮スイテングウマツる。
1118 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウノコした版木ハンギ茶碗チャワンがある。
1119 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ 安徳アントク天皇テンノウ マン寿ジュテラ開山カイザン神子カミコ和尚オショウ安徳アントク天皇テンノウである。
1120 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ タイヤスタノ マン寿ジュテラ開山カイザン神子カミコ和尚オショウは,タイヤスタノである。
1121 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマナガれてきて出家シュッケしたところ。安徳アントク天皇テンノウニュウソウテラ建立コンリュウされた。
1122 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマナガれてきて出家シュッケしたマン寿ジュテラには,宝剣ホウケンノコっている。
1123 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 二位ニイアマムラ   安徳アントク天皇テンノウ 二位ニイアマムラがある。
1124 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ   黒崎クロサキ 信光ノブミツ信行ノブユキ 信光ノブミツ信行ノブユキ安徳アントク天皇テンノウ駕籠カゴ背負セオってエイ彦山ヒコヤマえ,筑前チクゼン黒崎クロサキ(こやのせ)[北九州市キタキュウシュウシ八幡ヤハタ西ニシ領主リョウシュ山鹿ヤマガヒダリ衛門エモンフジオサヤカタハイる。
1125 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ     二位ニイアマ 二位ニイアマは,カミナンジウチ侍所サムライドコロ天皇テンノウ身代ミガわりとして入水ニュウスイ
1126 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,川上カワカミウツジンコウショウした。
1127 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは42サイ崩御ホウギョ川上カワカミミヤ陵墓リョウボがある。
1128 佐賀サガ 伊万里市イマリシ 白野シロノ   石塔セキトウ重盛シゲモリさん) 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドは,重盛シゲモリさんという石塔セキトウてた。
1129 佐賀サガ 伊万里市イマリシ 白野シロノ   石塔セキトウ重盛シゲモリさん) 平家ヘイケ落人オチウド 石塔セキトウてた平家ヘイケ落人オチウドは,ムラ創始ソウシシャである。
1130 佐賀サガ 佐賀市サガシ 蓮池町ハスイケマチ 小松コマツ 小松コマツ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドみ,タイ重盛シゲモリシタってヤシロてた。現在ゲンザイ小松コマツ神社ジンジャである。
1131 佐賀サガ 佐賀市サガシ 蓮池町ハスイケマチ 小松コマツ 小松コマツ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドは,タイ重盛シゲモリレイシズめるためオドりを奉納ホウノウした。現在ゲンザイ小松コマツ風流フウリュウこりである。
1132 佐賀サガ 3ヤシナグン 基山キヤママチ チギヤマ オオオコゼンテラ タイ重盛シゲモリ ダイオコゼンテラ境内ケイダイに,タイ重盛シゲモリ遺髪イハツめたフルトウっている。
1133 佐賀サガ 3ヤシナグン 基山キヤママチ チギヤマ オオオコゼンテラ タイ重盛シゲモリ ダイオコゼンテラ付近フキン小松コマツムラショウした。
1134 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ   八幡宮ハチマングウ タイ 建久ケンキュウ元年ガンネン(1190・8)相模サガミ鶴岡ツルガオカ八幡宮ハチマングウ勧請カンジョウタイラユイモリマツられている。
1135 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ 久間ヒサマ光武ミツタケ 牛若ウシワカ大明神ダイミョウジン タイ タイってきたウシんだのでそれをマツった。ウシワカ大明神ダイミョウジンショウする。ウシイシシャともいう。
1136 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ   中将チュウジョウマツ タイ タイったマツがある。中将チュウジョウマツショウする。
1137 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ   烏帽子エボシ タイ タイ烏帽子エボシててつけていたため,「烏帽子エボシ」という地名チメイがついた。
1138 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ シモ久間ヒサマ シャ タイ タイ虫除ムシヨけの方法ホウホウコウじた。シャがある。
1139 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ ツネザイテラ タイアツシハカ タイアツシ タイアツシ供養クヨウトウであるタカラキョウイントウがある。
1140 佐賀サガ キネシマグン 山内ヤマウチマチ フネハラ かんこオド タイ落人オチウド かんこオドりは,平家ヘイケ落人オチウドがはじめたものである。
1141 佐賀サガ 東松浦郡ヒガシマツウラグン キビマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,源氏ゲンジへのウラみをめて力一杯チカライッパイイシんだ。その両足リョウアシアトノコっている。
1142 佐賀サガ 東松浦郡ヒガシマツウラグン キビマチ   カサかぶりの神様カミサマ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドハカがある。カサをかぶった石塔セキトウがあり,カサかぶりの神様カミサマばれている。
1143 佐賀サガ 武雄タケオ 矢筈ヤハズ   巨石キョセキ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクれた大石オオイシがあった。
1144 佐賀サガ 武雄タケオ 矢筈ヤハズ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドツクってっていた。
1145 佐賀サガ 神埼郡カンザキグン 三瀬村ミツセムラ   石塔セキトウ重盛シゲモリさん) 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド恋人コイビトウバわれたキコリが,落人オチウドコロした。オンナ入水ジュスイした。落人オチウドホウムったところに石塔セキトウノコっている。
1146 佐賀サガ 佐賀郡サガグン ミズ上村カミムラ 寿ジュゼンテラ   エイソン 栄尊エイソンは,佐賀郡サガグンミズウエムラ寿ジュゼンテラ開山カイザンした。
1147 佐賀サガ 小城郡オギグン 小城町オギマチ イワクラテラ   トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンは,オニオウダン三郎サブロウダイキョウカイ参詣サンケイした。トラ書写ショシャしたキョウを,ダン三郎サブロウカタナオサめた。
1148 佐賀サガ 小城郡オギグン 小城町オギマチ イワクラテラ 曽我ソガ殿トノ腰掛コシカイシ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン参詣サンケイしたとき,イシウエ曽我ソガ兄弟キョウダイ姿スガタアラワれ,ニョホウキョウカイ聴聞チョウモンした。
1149 佐賀サガ 武雄市タケオシ 武雄町タケオマチ ナラ 曾我ソガ兄弟キョウダイ供養クヨウトウ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンは,武雄タケオ源氏ゲンジゆかりのであるとり,当地トウチ逗留トウリュウして曾我ソガ兄弟キョウダイ供養クヨウするためにトウてた。
1150 佐賀サガ 多久市タクシ ヒガシ多久町タクマチ シブ 曾我ソガ兄弟キョウダイハカ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン少将ショウショウが,曾我ソガ兄弟キョウダイハカてた。
1151 佐賀サガ 多久市タクシ ヒガシ多久町タクマチ シブ トラキヨミズ トラ御前ゴゼン 曾我ソガ兄弟キョウダイハカのそばに,トラんだというトラ清水シミズがある。
1152 佐賀サガ 多久市タクシ ヒガシ多久町タクマチ シブ トラ腰掛コシカイワ トラ御前ゴゼン 曾我ソガ兄弟キョウダイハカのそばに,トラ御前ゴゼン腰掛コシカイワがあった。
1153 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ     俊寛シュンカン キョウヤスタヨル俊寛トシヒロ伊王島イオウジマナガされた。シゲルキョウヤスタヨル帰郷キキョウするとき,俊寛トシヒロオオきなイワウエ足摺アシズりをしてサケんだ。
1154 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ   ヤスタノ舞台ブタイイシ tヤスタノ tヤスライが,ホラダケ山頂サンチョウ岩殿イワドノウツクノゾみながら[マイ]をった。これにチナんでヤスライ舞台ブタイイシがおこった。
1155 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ ホンマツ 俊寛シュンカン 俊寛シュンカン墓碑ボヒっている。俊寛シュンカンタズねてユウ王丸オウマルがたオトズれた。俊寛トシヒロナゲきつつも,ついに断食ダンジキして死亡シボウユウ王丸オウマルは,菩提ボダイトムラうために1ホンマツえた。
1156 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン 治承ジショウ元年ガンネン(1177)5ガツ俊寛シュンカンヤスタノキョウ肥前ヒゼン嘉瀬カセマサについた。そこから,伊王島イオウジマオクられてきた。
1157 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ 熊野クマノ権現ゴンゲン 俊寛シュンカン ヤスタノキョウ熊野クマノ権現ゴンゲンホコラをつくり参詣サンケイした。
1158 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン 嘉瀬カセショウから荒木アラキカン食物ショクモツってやってきた。
1159 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン 安徳アントク天皇テンノウ安産アンザン祈願キガンのため,流人ルニンミヤコカエ命令メイレイトドいた。しかし,俊寛シュンカンシマノコされた。
1160 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン キョウヤスタヨル帰京キキョウ数年スウネンユウオウ俊寛トシヒロムカえにた。しかし,俊寛トシヒロ伊王島イオウジマくなった。
1161 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ 俊寛シュンカンハカ 俊寛シュンカン オウは,俊寛シュンカンホウムり1ホンマツえた。俊寛シュンカンハカは,伊王島イオウジマ小学校ショウガッコウ運動場ウンドウジョウになっている。
1162 長崎ナガサキ  島原市シマバラシ 深江町フカエチョウ 安徳アントク 安徳アントク神社ジンジャ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウカンムリナガく。安徳アントク神社ジンジャマツる。寛政カンセイネン普賢岳フゲンダケ噴火フンカ土砂ドシャまった。大正タイショウ時代ジダイ初期ショキ再建サイケン昭和ショウワ60ネン安徳アントク天皇テンノウ800年祭ネンサイモヨオし,現在ゲンザイコイのぼりでニギわうことでられている。
1163 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ イカダ 安徳アントク天皇テンノウリョウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボがある。「8つのオウ」とばれている。
1164 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ イカダ 乳母ウバツカ 乳母ウバ 乳母ウバツカがある。
1165 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ イカダ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウイカダナガいたため,「イカダ」という地名チメイがついた。
1166 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ 神代クマシロヒガシサトイカダ ソデサカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドナガソデきながら往来オウライしたため「ソデサカ」とづけられた。
1167 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 口之津クチノツマチ     平家ヘイケ落人オチウド 大屋オオヤの「タイ」「オオ平良タイラ」のセイは,平家ヘイケ末流マツリュウであるとされる。
1168 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 深江町フカエマチ ヤマテラ 平家ヘイケ集落シュウラク 平家ヘイケ落人オチウド 深江町フカエマチヤマテラは,平家ヘイケ落人オチウド集落シュウラクである。
1169 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 深江町フカエマチ 権現ゴンゲンワキ 門脇カドワキ神社ジンジャ タイオシ 島原市シマバラシ安徳アントクからノガれてきたタイオシマツる。
1170 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ   有喜ウキ   安徳アントク天皇テンノウ 島原市シマバラシ安徳アントクから,安徳アントク天皇テンノウ雲仙ウンゼンえて南串山ミナミクシヤママチキョウ有喜ウキいた。
1171 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ   有喜ウキ   安徳アントク天皇テンノウ 有喜ウキヤマ安徳アントク天皇テンノウガケからちた。そのときに,まったイワがある。
1172 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 小川町オガワマチ オンナオツ 二位ニイアマモリ 二位ニイアマ 二位ニイアマモリるとタタりがある。
1173 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 小川町オガワマチ オンナオツ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ 平家ヘイケ落人オチウドサトがある。ヤマ頂上チョウジョウに「安徳アントクテン」とキザまれたがある。ムカシ,この安徳アントク天皇テンノウカクんだが,源氏ゲンジつかり不運フウン最期サイゴげた。サトヒトたちは天皇テンノウ崩御ホウギョカナしみ,手厚テアツホウムり,石碑セキヒてた。
1174 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 香田コウダ   墓石ボセキ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントクさん」とばれる墓石ボセキがある。
1175 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 鷲崎ワシザキ     平家ヘイケ落人オチウド ニン平家ヘイケ落人オチウドんだ。
1176 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 吉井町ヨシイマチ チョクタニカワ 手水チョウズカワ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウがここでアラった。
1177 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 吉井町ヨシイマチ チョクタニカワ チンフチ 安徳アントク天皇テンノウ 内裏ダイリヤマのそばをナガれるチョクタニカワで,安徳アントク天皇テンノウミズんだ。そこを,「チンフチ」とぶ。
1178 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 吉井町ヨシイマチ クサ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんだ。キョウナマりでハナす。
1179 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 飯良イイラゴウ   タイイエ タイイエ上陸ジョウリクタスけた海人アマ領海リョウカイケンアタえた。シマ一帯イッタイ支配シハイ
1180 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 飯良イイラゴウ 八幡ヤハタグウ タイイエ この上陸ジョウリクしたタイイエによって,領海権リョウカイケンアタえられたウミヒト八幡宮ヤハタグウてた。
1181 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ   タイイエ タイイエ上陸ジョウリクタスけた衛門エモン中村ナカムラセイアタえた。
1182 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ サキ タイイエ タイイエ上陸ジョウリクしたところを「サキ」とぶ。
1183 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ フネカク タイイエ タイイエりが上陸ジョウリクするときにフネカクしたところを「フネカク」という。
1184 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ シロ タイイエ タイイエは,山本ヤマモトシロキズいてんだ。
1185 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 鹿町シカマチ ウタウラ フネムラ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドウタウラ上陸ジョウリクし,そこにんだ。「フネムラ」とづけた。
1186 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,福岡県フクオカケン甘木市アマギシ黒川クロカワ成長セイチョウ。その長崎県ナガサキケンキタ松浦マツウラグン吉井町ヨシイマチチョクタニシロ成人セイジンした。
1187 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 吉井町ヨシイマチチョクタニシロ成人セイジンした安徳アントク天皇テンノウ島津シマヅオンナ結婚ケッコンした。オモヒサシスケクニまれた。
1188 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ島津シマヅイエ息女ソクジョメトった。その,惟家・重尚(シゲノブ)がまれ,ふたりは,斎藤帯刀(タテワキ)ら二百余騎を率いて,寛元カンゲンネン(1246)に対馬ツシマリュウ(アビル)クニシンホロぼして地頭ジトウとなった。対馬ツシマ宗家ソウケは,ムネ後裔コウエイである。
1189 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 内院ナイイン 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウリョウ伝説デンセツのそばに,「内院ナイイン」という地名チメイがある。
1190 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ島津シマヅオンナ結婚ケッコンしてまれたオモヒサ対馬ツシマワタった。その安徳アントク天皇テンノウムカれ,久根クネシャんだ。安徳アントク天皇テンノウは74サイ崩御ホウギョ
1191 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボがある。享和キョウワ年間ネンカン(1801〜1803)に久根クネ田舎イナカイシカクた。ナカには,銅器ドウキテツがあった。明治メイジ16ネン4ガツ5リョウハカ見込ミコサダめられ,明治メイジ43ネンリョウハカ伝説デンセツ昭和ショウワネン6ガツリョウハカ参考サンコウアラタめられた。
1192 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ オサ殿トノツカ 平家ヘイケ落人オチウド オサ殿トノツカは,安徳アントク天皇テンノウ奉仕ホウシした人々ヒトビトツカだといわれている。
1193 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 犬塚イヌヅカ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ由来ユライする犬塚イヌヅカがある。
1194 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 馬塚ウマヅカ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ由来ユライするウマツカがある。
1195 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ マメ カクヤマ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ一時イチジカクれたヤマを「カクヤマ」(かぐすやま)という。
1196 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ マメ スベラギ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウカクヤマから久根クネウツるときオオきな三角サンカクイワシタ潮待シオマちをした。そのイワを「スベラギ」(こうのこ)という。
1197 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ ヒサ 安徳アントク天皇テンノウハカ 安徳アントク天皇テンノウ サイサン森中モリナカ五輪塔ゴリントウがあり,安徳アントク天皇テンノウハカツタえられる。
1198 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ ヒサ シタガシンハカ 平家ヘイケ落人オチウド 安徳アントク天皇テンノウハカツタえられるヤマ五輪ゴリントウチカくに,シタガシンたちのハカがある。
1199 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ ゲンハラ 八幡宮ハチマングウ天神テンジンシャ 安徳アントク天皇テンノウ 八幡宮ハチマングウ境内ケイダイ天神テンジンシャ安徳アントク天皇テンノウマツる。
1200 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 内山ウチヤマ   オモヒサ 安徳アントク天皇テンノウ長子チョウシオモヒサんだ。
1201 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン 豊玉トヨタママチ 二位ニイ   タイムネ タイムネ5セイマゴて,このオサめた。ヤカタアトがある。
1202 長崎ナガサキ  ウエアガタグン ウエアガタマチ   平家ヘイケツカ   平家ヘイケツカがある。
1203 長崎ナガサキ    対馬ツシマ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ子供コドモニン対馬ツシマオサめた。
1204 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 野母崎ノモザキチョウ   高浜タカハマムラ 三浦ミウラ能仲ノウナカ 落人オチウド三浦ミウラノウナカ殿トノクラヤマ城山シロヤマシロキズいた。高浜タカハマムラ開祖カイソである。
1205 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ   タイムラ 平家ヘイケ落人オチウド タイムラ平家ヘイケゆかりのものがヒラいた。
1206 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ     タイオモ タイ重盛シゲモリ山中サンチュウカクんだ。ナベカマカタチイシがある。
1207 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ 小松コマツ   タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリヤカタがあったため,キョウを「小松コマツ」という。
1208 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ     タイ 平家ヘイケツカがある。ヒラハカといわれる。
1209 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ シタゴウ 平家塚ヘイケツカ   平家塚ヘイケツカがある。「すみよしサマ」とばれている。
1210 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 三重町ミエマチ 樫山カシヤマゴウ ツカ タイ タイクビツカとされる古墳コフンがある。
1211 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ タチ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんだ。
1212 長崎ナガサキ  福江市フクエシ カタ     タイイエ タイイエとその家来ケライ上陸ジョウリクした。約束ヤクソクヤブ里人サトビト源氏ゲンジ密告ミッコクしたため,イエたちは自害ジガイした。サトイエは6ケンよりえない。
1213 長崎ナガサキ  福江市フクエシ カタ   平家ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家塚ヘイケツカがある。
1214 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈良ナラマチ     平家ヘイケ落人オチウド 吉川ヨシカワシン四郎シロウは,平家ヘイケ落人オチウドである。
1215 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 三本松サンボンマツ 平家塚ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドマツった平家塚ヘイケツカがある。るとタタったため,ホコラててマツった。
1216 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ ハクゴウ 平家塚ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケツカがある。「どやま」とぶ。
1217 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 大串オオグシゴウ イケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 大串オオグシゴウ西江ニシエウエのは,平家ヘイケサン姉妹シマイ「とよヒメ」「つるヒメ」「さよヒメ」をマツる。
1218 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 椿ツバキハラ 平家塚ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家塚ヘイケツカがある。
1219 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 若松町ワカマツマチ サカキウラ 三年サンネンウラ 平家ヘイケ落人オチウド シロイヌをつれた平家ヘイケ落人オチウドが4ニンて,3ネンアイダサカキウラカクんだ。そのを「三年サンネンウラ」とづけられた。
1220 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 若松町ワカマツマチ   リュウオトリュウソンツカ 平家ヘイケ落人オチウド 三年サンネンウラカクれていた平家ヘイケ落人オチウドは,イヌえたため源氏ゲンジつかり自刃ジジンした。埋葬マイソウしたところをるとタタった。リュウオトリュウソンツカマツる。
1221 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 若松町ワカマツマチ ハマ 草履ゾウリけのマツ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドがこのマツ草履ゾウリけ,コロモアタマせてオヨいでげた。そこで,このマツを「草履ゾウリけのマツ」とショウするようになった。若松町ワカマツマチサカキウラ三年サンネンウラ谷間タニマカクれた。
1222 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 江上エガミ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド夏井ナツイ上陸ジョウリク大串オオグシヒラいた。
1223 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 岐宿キシクチョウ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド竹林タケバヤシになった。
1224 長崎ナガサキ  佐世保市サセボシ 横手ヨコテ ココロメン カクヒダケ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクれた洞窟ドウクツがある。
1225 大分オオイタ 速見郡ハヤミグン 山香町ヤマガマチ 西ニシ中尾ナカオ 八幡宮ハチマングウ 小松コマツヒカリ 小松コマツヒカリ宇佐ウサ八幡宮ハチマングウから勧請カンジョウした八幡宮ハチマングウがある。
1226 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ     八郎ハチロウ 遺臣イシン八郎ハチロウソウになり,平家ヘイケ追善ツイゼン供養クヨウをした。
1227 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ 粟嶋アワシマ神社ジンジャ タイ清盛キヨモリムスメ セマ海岸カイガンに,タイ清盛キヨモリの7ニンムスメウチのひとりがフネってナガされてきた。このムスメは,婦人病フジンビョウにかかって,ふためとられぬ婦人病フジンビョウカカっていた。ムスメマエに,コシからシタヤマイスクカミとなることをチカった。この小舟コブネコワしたイシ男根ダンコンていたところから,カメアタマにあたるところをウエにして,5スンオオきさのアナってヒメタマシイアンとした。それが,現在ゲンザイ粟嶋アワシマ神社ジンジャである。
1228 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ 殿トノ   タイムネ タイムネんでいた。
1229 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ ナガフサ   タイナガフサ タイナガフサんでいた。
1230 大分オオイタ 西ニシ国東クニサキグン 真玉町マタママチ マツタイ 大明神ダイミョウジン 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドツマっていたイシボウ大明神ダイミョウジンとしてマツる。
1231 大分オオイタ 杵築キヅキ ウマ本村ホンムラ   談合ダンゴウドウ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド談合ダンゴウした小堂ショウドウがある。談合ダンゴウドウばれている。
1232 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 森山モリヤマ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウんだ宇佐ウサ大宮司ダイグウジ公通キミミチカンがあった。
1233 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 長洲ナガス   イケサマ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ上陸ジョウリクしてヤスんだところ。イケガワホコラ天皇テンノウマツる。
1234 大分オオイタ 宇佐市ウサシ カネ   ウマサマイケ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ宇佐ウサ行幸ギョウコウしたとき,カミウマキヨめたイケを「ウマサマイケ」という。
1235 大分オオイタ 宇佐市ウサシ   高田タカダ街道カイドウ   安徳アントク天皇テンノウ  
1236 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 柳ヶ浦ヤナギガウラ 小松コマツウラ キヨキョウハカ タイキヨキョウ タイキヨキョウ入水ニュウスイしたウラを,「小松コマツウラ」という。清経キヨツネハカがある。
1237 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 明治村メイジムラ ウケクチジツモリ 烏帽子エボシヤマ タイジツモリ タイジツモリは,烏帽子エボシヤマモグ。このてた。ジツモリハカがある。
1238 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン 安心アンシンインマチ トクタノ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド集落シュウラクがある。
1239 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン 院内インナイマチ 平原ヘイゲン   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドニンが,源氏ゲンジわれてげてきた。1人ヒトリは,ホンマツ山頂サンチョウって割腹カップクした。そして,追手オッテ源氏ゲンジ武将ブショウかって自分ジブン臓物ゾウモツげつけた。その一部イチブっかかり,「ゾウカケマツ」とばれるようになった。
1240 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン   長峰ナガミネ 清水寺キヨミズデラ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1241 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン   芝原シバハラ 善光寺ゼンコウジ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1242 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン   天津テンシン 広瀬ヒロセ神社ジンジャ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1243 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ 耶馬溪ヤバケイ 羅漢寺ラカンジ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1244 大分オオイタ シタグン   マグサ 長谷寺ハセデラ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1245 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ イエ 山国ヤマグニカワ 平家ヘイケ落人オチウド 宇佐市ウサシタカイエ(たかい)やシモショウヌノハマ上陸ジョウリクした平家ヘイケ落人オチウドは,イマからイヌ丸川マルカワサカノボ山国ヤマグニカワ流域リュウイキシロ一族イチゾク庇護ヒゴける。
1246 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ イエ   平家ヘイケ落人オチウド 山国ヤマグニカワからカキサカえてヤマウツカワて,イエ(えごもり)に到着トウチャク。ここに,ナガらくいた。
1247 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ イエ もうらくのサカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家落人がイエマエサカを,「もうらくのサカ」という。いまは,「もうだくのサカ」とわれる。
1248 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ 宮園ミヤゾノ 八幡ヤハタ神社ジンジャ 河童カッパ 平家ヘイケ残党ザントウレイ河童カッパになってガイをなすので,ガクハジめた。→大分県オオイタケン玖珠郡クスグン玖珠町クスマチシタ横尾ヨコオカメミヤコ神社ジンジャ(『日本伝説体系』13巻北九州編p.146)にも,音楽オンガクソウして平家ヘイケレイ慰撫イブした伝承デンショウがある。
1249 大分オオイタ シタグン 山国ヤマグニマチ     河童カッパ 筑後川チクゴガワ入水ジュスイ河童カッパになった平氏ヘイシレイナグサめるためにハジめられたラクが,玖珠郡クスグン古後コゴからツタわった。白地シラジラクという。
1250 大分オオイタ 中津市ナカツシ 奥平オクダイラ     河童カッパ 平氏ヘイシレイ河童カッパになり,オンナいてまれわろうとした。海門カイモン和尚オショウ仏縁ブツエンムスばせわび証文ショウモンかせた。
1251 大分オオイタ 中津市ナカツシ 藤田フジタ     タイ タイハカウエイエてた家族カゾク三代サンダイ盲人モウジンまれた。
1252 大分オオイタ 日田郡ヒタグン マエ津江ツエムラ   弥太郎ヤタロウ屋敷ヤシキ 弥太郎ヤタロウ 落人オチウド弥太郎ヤタロウダマされてコロされた。
1253 大分オオイタ 日田郡ヒタグン マエ津江ツエムラ   弥太郎ヤタロウフチ 弥太郎ヤタロウ 落人オチウド弥太郎ヤタロウダマされてコロされた。
1254 大分オオイタ 日田郡ヒタグン マエ津江ツエムラ   弥太郎ヤタロウツカ 弥太郎ヤタロウ 落人オチウド弥太郎ヤタロウダマされてコロされた。
1255 大分オオイタ 日田郡ヒタグン テンマチ 湯山ユヤマ はなだはんすけのハカ はなだはんすけ 落人オチウドはなだはんすけのハカがある。平家ヘイケ屋敷ヤシキ平家ヘイケ井川イカワ(いご)がある。
1256 大分オオイタ 日田郡ヒタグン テンマチ カクインザン   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんだ。カガミウス
1257 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 玖珠町クスマチ マクナギ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドマクったためまれた地名チメイ
1258 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 玖珠町クスマチ   カメミヤコ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 筑後チクゴクニガクヒトから音楽オンガク秘術ヒジュツした巻物マキモノサズけられた農民ノウミンムラモノにこれをナラわせ,その子孫シソン筒井ツツイ6衛門エモン春行ハルイキが,玖珠郡クスグン岩室村イワムロムラ童子ドウジツタえた。
1259 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ 平家ヘイケヤマ   平家ヘイケ落人オチウド 源氏ゲンジ平氏ヘイシとは,このヤマニギ一緒イッショ帰農キノウした。しかし,タガいにウジだけはワスれないようにと,小正月コショウガツアサカユに,源氏ゲンジモチれたシロカユ平家ヘイケ子孫シソン小豆アズキアカカユツクっている。
1260 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ 平家ヘイケヤマ   平家ヘイケ落人オチウド オオくの平家ヘイケ落人オチウドいた。帰洛キラクノゾみがたせないため,その妄執モウシュウによってサルまれわった。享保キョウホウのころまで,平家ヘイケ100ヒキといわれるほどオオかったが,作物サクモツらすので猟師リョウシが87ヒキコロした。そのナカ一匹イッピキは,シュちたシュサヤカタナっていた。
1261 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ 松木マツキ宝山タカラヤマ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドみ,軍資金グンシキンカクした。
1262 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドヒラいた平家ヘイケタニがある。
1263 大分オオイタ 大分郡オオイタグン 湯布院ユフインマチ イネダケ 立石タテイシイケ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ残党ザントウたれ,立石タテイシイケミズアカまった。
1264 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソクロタケ かくしミズ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドクロダケカクんだ。白拍子シラビョウシもつれていた。
1265 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソクロタケ 白拍子シラビョウシ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド白拍子シラビョウシれてきていたため,「白拍子シラビョウシ」の地名チメイがつけられた。
1266 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソ 上臈イシ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドってきたジョウロウ自殺ジサツした。遺体イタイイシになり「上臈イシ」とばれた。
1267 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソ 小松コマツイケ 平家ヘイケ落人オチウド 上臈イシのそばにあるイケを「小松コマツイケ」とぶ。
1268 大分オオイタ 直入郡ナオイリグン 久住町クジュウマチ クロダケ 女郎ジョロウイシ 平家ヘイケ落人オチウド クロダケフモトに「女郎ジョロウイシ」があり,そばにホコラっている。平家ヘイケ滅亡メツボウトキ,ひとりの上臈(身分ミブンタカオンナセイ)がこのムラノガれてきたが,らえられコロされ,そのウラみでイシした。このイシにさわると大雨オオアメる。この伝承とよく似たプロットは,熊本県通潤橋のそばにある。[京都から平家公達を追ってきた女臈がやってきたが,平家ヘイケ公達キンダチがすでにタニこうにったといてイシした。]オオくのイワナカホコラっている。
1269 大分オオイタ 直入郡ナオイリグン 萩町ハギマチ 神原カミハラ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんでいた。
1270 大分オオイタ 大野郡オオノグン 三重町ミエマチ 内田ウチダ   平家ヘイケ女性ジョセイ 平家ヘイケ女官ニョカンニンが,内田ウチダ部落ブラクノガれてきた。官女カンジョたちに一夜イチヤ宿ヤドした夫婦フウフは,カカわりいになるのをオソれ,「源氏ゲンジがすぐそこまでている」とげた。女官ニョカンたちはツカてていたため,井戸イドナカトウじてんだ。それから,毎夜マイヨ井戸イドからヒカるものがミナミしてんでいった。夫婦フウフは,クルって井戸イド身投ミナげをした。9ニン女官ニョカン夫婦フウフを,「吉井ヨシイ明神ミョウジン」としてマツった。
1271 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ 横川ヨコカワ 鹿シカサマ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドしたツエ大木タイボクになった。鹿シカサマばれ,サワるとタタる。
1272 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ 横川ヨコカワ 鹿シカサマ 平家ヘイケ落人オチウド 鹿シカサマヨコ落人オチウドホウムった。
1273 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ ウエチョク ミヤシタ タイヒカリヒカリクニ 緒方オガタサカ平家ヘイケ軍勢グンゼイ急襲キュウシュウしたとき,サカノガれてタイラ光世コウヨ光国ミツクニ兄弟キョウダイ佐伯サエキショウげてきた。
1274 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ ナオウミ   タイヒカリヒカリクニ タイヒカリヒカリクニげてきたとき,蕎麦ソバハナいているのをて,「ナオウミなるや」とタズねた。そこで,このを「ナオウミ」(なおうみ)とぶようになった。
1275 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ   厳島イツクシマ神社ジンジャ タイヒカリヒカリクニ 村人ムラビトたちがタイヒカリヒカリクニる。ヒカリは,ヒジかれモリナカカクれた。その二人フタリユメ厳島イツクシマサンハシラ大神ダイジンアラワれた。そこで,ふたりは,厳島イツクシマ神社ジンジャ勧請カンジョウしたところ,ヒジイタみはたちどころにえた。
1276 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ   かくれ タイヒカリヒカリクニ タイヒカリヒカリクニは,深山シンザンヒソめる。そこを「かくれ」とショウした。
1277 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ イン   タイヒカリヒカリクニ タイヒカリクニヒカリは,ウシにまたがってヤマえ,インサトびた。
1278 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ イン   タイヒカリヒカリクニ タイヒカリヒカリクニは,緒方オガタサカらえられ,悲惨ヒサン最期サイゴげた。二人フタリは,そのオコレイとなったため里人サトビトは「チョウ」「マエタカ」の両社リョウシャマツった。
1279 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ   ヒジキリ神社ジンジャ タイヒカリヒカリクニ ハシラ厳島イツクシマ神社ジンジャカミオソれかしこみつつ,社殿シャデン建立コンリュウし,ヒジ神社ジンジャとしてアガタテマツった。
1280 大分オオイタ 臼杵市ウスキシ       平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドで「シャ」というモノんでいる。ミヤコちるときムスメシツクヒマもなく布袋ホテイにいれ「シャこう」といって出発シュッパツした。そのため,「シャ」とばれるようになった。頭上ズジョウ運搬ウンパン習慣シュウカンノコっている。源氏ゲンジわれたとき,アタマ荷物ニモツせてカワワタったことに由来ユライする。
1281 大分オオイタ 津久見市ツクミシ ウラ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドげてきたところとう。
1282 大分オオイタ 津久見市ツクミシ 釜戸カマド     平家ヘイケ落人オチウド 源氏ゲンジ平氏ヘイシとが握手アクシュをした。
1283 大分オオイタ 佐伯サエキ 大入オオイシマ アラ網代アジロ 山王サンノウ権現ゴンゲン 平家ヘイケ落人オチウド キヨイエ丸山マルヤマの2セイは,平氏ヘイシ末裔マツエイである。山王サンノウ権現ゴンゲン祖先ソセンカミとしている。
1284 大分オオイタ 小野鶴オノヅル   西ニシヒカリテラ トラ御前ゴゼン石碑セキヒ トラ御前ゴゼン 曾我ソガ兄弟キョウダイ供養クヨウのため,トラ御前ゴゼン観音像カンノンゾウ背負セオ西ニシヒカリテラちてきた。トラ御前ゴゼンは,ここでボッした。
1285 大分オオイタ 小野鶴オノヅル       トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンは,10ロウナツかしむウタんだ。岩間イワマから綺麗キレイミズイケになったため,ウタイケづけられた。
1286 大分オオイタ キタ海部郡カイフグン 佐賀関サガノセキマチ   トラ御前ゴゼンイシ トラ御前ゴゼン 曽我ソガ10ロウ5ロウ菩提ボダイトムラうため諸国ショコクメグトラ御前ゴゼンが,このオトヅ腰掛コシカけたイワを「トラ御前ゴゼンイシ」とんでいる。
1287 大分オオイタ キタ海部郡カイフグン 佐賀関サガノセキマチ ココロザシハマ トラ御前ゴゼンイシ トラ御前ゴゼン 曽我ソガ10ロウ5ロウ菩提ボダイトムラうため諸国ショコクメグトラ御前ゴゼンが,このオトヅれ,足跡ソクセキノコしたシロイシを「トラ御前ゴゼンイシ」とんでいる。
1288 大分オオイタ キタ海部郡カイフグン 佐賀関サガノセキマチ トラ御前ゴゼンヤマ   トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンにちなむ供養クヨウトウっている。
1289 大分オオイタ 直入郡ナオイリグン 荻町オギマチ   トラ御前ゴゼンハカ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンハカがある。
1290 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 玖珠町クスマチ   トラ御前ゴゼンハカ トラ御前ゴゼン トラは,大石オオイシんだ。ハカがある。
1291 大分オオイタ 下毛シモゲグン ホン耶麻ヤマケイマチ   トラ御前ゴゼンハカ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンハカにさわるとアメる。
1292 大分オオイタ 下毛シモゲグン 山国ヤマグニマチ   トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンがたっている。
1293 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 安岐町アキマチ   トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンがたっている。
1294 大分オオイタ 大分郡オオイタグン 庄内町ショウナイマチ   トラ御前ゴゼンハカ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンハカがある。
1295 大分オオイタ 速見郡ハヤミグン 野田ノダ 7 トラ御前ゴゼントウ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼントウっている。
1296 大分オオイタ 別府市ベップシ     立石タテイシシロ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンは,善光寺ゼンコウジモウでたノチ豊後ブンゴた。大友オオトモノウチョクトラムカれ,立石タテイシシロまらせた。トラは,ここを足場アシバとして各地カクチメグった。
1297 大分オオイタ   天瀬町アマガセマチ   アマ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン天瀬町アマガセマチんで一生イッショウえた。アマんでいたため,「アマ」とばれていたが,ノチに「天ケ瀬アマガセ」に変化ヘンカした。
1298 大分オオイタ 別府市ベップシ   実相寺ジッソウジヤマ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン 実相寺ジッソウジヤマに,トラ御前ゴゼンシノてられている。
1299 大分オオイタ 別府市ベップシ キタコン 天神テンジンシャ トラ御前ゴゼンマツ トラ御前ゴゼン キタキンリン天神テンジンシャ境内ケイダイトラ御前ゴゼンマツがあった。嘉永カエイネン暴雨ボウウ風雨フウウタオれ,神殿シンデンしつぶした。このマツは,立石タテイシジョウ拠点キョテン諸国ショコクメグアルいたときにえていったものである。
1300 大分オオイタ 別府市ベップシ 扇山オウギヤマ   トラ御前ゴゼンマツ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンは,立石タテイシジョウ拠点キョテン諸国ショコクメグアルいた。扇山オウギヤマフモトマツえたため,「トラマツ」とばれている。
1301 大分オオイタ 別府市ベップシ 扇山オウギヤマ 天神テンジンシャ トラ御前ゴゼンマツ トラ御前ゴゼン ムカシアメ扇山オウギヤママツからシロヒカリて,タマとなり,実相寺ジッソウジマツて,天神テンジンシャマツび,そこでえた。
1302 福岡フクオカ  甘木市アマギシ 平塚ヒラツカ   クサミズ殿トノハカ 俊寛シュンカン クサミズ(そうず)殿トノハカは,俊寛シュンカン僧都ソウズ,あるいは2ミナモトマコト僧都ソウズのものであるという。
1303 福岡フクオカ  福岡市フクオカシ 南区ミナミク ウエ尾長オナガ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウシロウマって井戸イドちた。そこで,このでは井戸イドらず,ウマわない。
1304 福岡フクオカ  福岡市フクオカシ 南区ミナミク ウエ尾長オナガ 御子ミコ神社ジンジャ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウマツった御子神社ミコジンジャがある。
1305 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ   ヤナギウラ 清盛キヨモリハカ 清盛キヨモリ ヤナギウラ入水ジュスイした清盛キヨモリハカがある。
1306 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク   ハカ t 平氏ヘイシホロんだには,タマ門司モジ城山シロヤマ古井戸フルイドぶ。
1307 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 小倉南区コクラミナミク イタダキヨシ吉原ヨシハラ   平家ヘイケオンナ 女郎ジョロウになった平家ヘイケオンナが,イタダキヨシ(かぐめよし)のカワハシんでいた。
1308 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 小倉南区コクラミナミク 隠蓑カクレミノ   安徳アントク天皇テンノウ 寿永ジュエイネンダンウラからげてきた安徳アントク天皇テンノウは,平氏ヘイシ公達キンダチマモられて門司モジウラ上陸ジョウリク長野ナガノ城主ジョウシュタヨり,そこで数ヶ月スウカゲツごした。城主ジョウシュボッしたので,英彦山ヒコサンかった。横代ヨコシロからシロ野村ノムラ隠蓑カクレミノ)までたとき,源氏ゲンジセマっているのをった村人ムラビトたちは安徳アントク天皇テンノウをおドウ屋根ヤネえに使ツカワラミノででカクした。
1309 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 平山ヒラヤマ 貴船キブネ神社ジンジャ 平家ヘイケ後裔コウエイ 平家ヘイケ後裔コウエイがみ,一族イチゾク供養クヨウのために安徳アントク天皇テンノウ衣冠イカン姿スガタ木造モクゾウキザんだ。
1310 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 太刀タチウラ 太刀タチイケ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ太刀タチめた「太刀タチイケ」がある。イケは,井戸イドとも。
1311 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 太刀タチウラ 太刀タチイケ 安徳アントク天皇テンノウ 平家ヘイケサムライ太刀タチアラった。
1312 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 風呂フロ 風呂フロ井戸イド 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ使ツカった井戸イドを,「風呂フロ井戸イド」あるいは「不老フロウ井戸イド」とんでいる。
1313 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 大里オオサト本町ホンマチ ザイショ 安徳アントク天皇テンノウ 大里ダイリ(だいり)は,太宰府ダザイフからノガれてきた安徳アントク天皇テンノウ在所ザイショアトである。
1314 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 大里オオサト ヤナギ御所ゴショ 安徳アントク天皇テンノウ 太宰府ダザイフわれた安徳アントク天皇テンノウは,ヤナギウラ滞在タイザイした。御所ゴショ神社ジンジャ大鳥居オオトリイヨコには,平家ヘイケ公達キンダチミヤコシノんでんだウタキザまれている。「けてきし 野辺ノベツユとも へずして オモはぬサト ツキをみるかな 経正卿」「君すめは ここも雲井乃 月なるを なを恋しきは 都なりけり 時忠卿」
1315 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク   オオ海岸カイガン ウミ御前ゴゼン タイオシキョウツマウミ御前オマエは,ダンウラ合戦カッセン一族イチゾクとともに海中カイチュウボッした。
1316 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク   オオ海岸カイガン ウミ御前ゴゼン ダンウラ合戦ガッセン海中カイチュウトウじたタイオシキョウツマウミ御前オマエ遺体イタイは,大積オオツミ(おおつみ)の海岸カイガン漂着ヒョウチャクし,村人ムラビトによってホウムられた。
1317 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク   オオ海岸カイガン ウミ御前ゴゼン ウミ御前ゴゼンは,豊前ブゼン河童カッパ支配シハイし,源氏ゲンジ関係カンケイするものをウミナカきずりんだ。
1318 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 乙女オトメヤマ テンエキ神社ジンジャ ウミ御前ゴゼン テンエキ神社ジンジャウミ御前ゴゼンホコラがある。
1319 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク     カニ 平氏ヘイシ武将ブショウ平家ヘイケカニになった。イカった人面ジンメンのような文様モンヨウカニ甲羅コウラにある。
1320 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク     河童カッパ 平氏ヘイシオンナ河童カッパになった。
1321 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 黒川クロカワ   タイヤスイキ 平家ヘイケ武将ブショウタイヤスイキ(たいらのやすおき)と同族ドウゾクハカツタえられる18五輪ゴリントウがある。
1322 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 黒川クロカワ   タイヤスイキ 平家ヘイケ武将ブショウタイヤスイキは,安徳アントク天皇テンノウ命令メイレイ宇佐ウサ八幡宮ハチマングウ戦勝センショウ祈願キガンのためにったが,岐路キロダンウラ平家ヘイケ一門イチモン滅亡メツボウしたことをった。そのタイヤスイキたちは,黒川クロカワ山間部サンカンブ一門イチモン菩提ボダイトムラいながららした。平和ヘイワになってから,サトりて田畑デンパタタガヤ生活セイカツをおくった。
1323 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 黒川クロカワ   タイヤスイキ タイヤスイキは,ハチセイアラタめた。セイ由来ユライは,耕地コウチ中央チュウオウキョカマえ,八方ハッポウ樹木ジュモクえてカゼフセいだことによる。
1324 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 白野シロノマチ   平家ヘイケ落人オチウド 三叉路サンサロ道路ドウロバタに10五輪ゴリントウっている。これは,平家ヘイケハカといわれている。
1325 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 門司区モジク 大積オオツミ あまごぜ タイオシキョウツマ タイオシキョウ(たいらののりつね)のツマウミ御前ゴゼン(あまごぜ)」はダンウラタタカいで入水ジュスイ。その遺体イタイがこのナガいた。村人ムラビトハカモウけた。そのハカは,「あまごぜ」とばれている。
1326 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 八幡ヤハタ西区ニシク 紅梅コウバイ 紅梅コウバイヒメハカ 紅梅コウバイヒメ 紅梅コウバイヒメ安徳アントク天皇テンノウ叔母オバ,あるいはイモウト)のハカがある。
1327 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 八幡ヤハタ西区ニシク 紅梅コウバイ 紅梅コウバイ地蔵ジゾウ 紅梅コウバイヒメ 紅梅コウバイヒメ安徳アントク天皇テンノウ叔母オバ,あるいはイモウト)にまつわる紅梅コウバイ地蔵ジゾウっている。
1328 福岡フクオカ  北九州市キタキュウシュウシ 八幡ヤハタ西区ニシク エイイヌマル サカキヒメ神社ジンジャ サカキヒメ タイ資盛トシモリムスメ安徳ヤストク天皇テンノウツカえていたサカキヒメは,ヤナギウラハラシタ難病ナンビョウカカり「サカキ宿ヤドって,コシシタヤマイスクう」とノコして他界タカイした。そのヒメマツっている。
1329 福岡フクオカ  遠賀郡オンガグン 芦屋アシヤマチ 山鹿ヤマガ 大君オオキミヤマ 山鹿ヤマガ秀遠ヒデトウ 山鹿ヤマガヒデトオ大君オオキミヤマカリ御所ゴショツクって安徳アントク天皇テンノウムカタテマツった。
1330 福岡フクオカ  遠賀郡オンガグン 芦屋アシヤマチ 山鹿ヤマガ 大君オオキミヤマ 安徳アントク天皇テンノウ 大君オオキミヤマ安徳アントク天皇テンノウヒルめた。以来イライ,この周辺シュウヘンではヒルショウじることがない。
1331 福岡フクオカ  遠賀郡オンガグン 岡垣町オカガキマチ 内浦ウチウラ ホウオウテラ 安徳アントク天皇テンノウ 寿永ジュエイ年間ネンカン安徳アントク天皇テンノウタイムネとともに太宰府ダザイフから山鹿ヤマガ途次トジホウオウテラヤスんだ。ホウオウテラマエを「カミマエ」とぶのは,そのことに由来ユライしている。
1332 福岡フクオカ  遠賀郡オンガグン 岡垣町オカガキマチ 内浦ウチウラ ホウオウテラ タイムネ タイ長子チョウシタイムネ宗盛ムネモリミキ)は,ホウオウテラ本尊ホンゾンユメコクによって対馬ツシマワタり,宗家ソウケとなった。
1333 福岡フクオカ  遠賀郡オンガグン 岡垣町オカガキマチ 内浦ウチウラ ホウオウテラ タイムネ タイムネは「他界タカイノチカナラ遺骸イガイホウオウテラホウムれ」との遺言ユイゴンノコし,建長ケンチョウ元年ガンネン(1249)9ガツ19ボッした。
1334 福岡フクオカ  遠賀郡オンガグン 岡垣町オカガキマチ 内浦ウチウラ ホウオウテラ タイムネ タイムネ遺骸イガイは,遺言ユイゴンシタガって遺臣イシンウメホンボウ白石シライシヘイヒダリ衛門エモンなどによってホウオウテラ埋葬マイソウされた。
1335 福岡フクオカ  遠賀郡オンガグン 岡垣町オカガキマチ 内浦ウチウラ ホウオウテラ タイムネ タイムネ御廟ゴビョウショが,本堂ホンドウ裏側ウラガワにある。
1336 福岡フクオカ  フク 津屋ツヤサキ     赤間アカマ ダンウラタタカいのノチに,赤間アカマ西ニシノガれてこのんだ。宮城県ミヤギケン鹿島台カシマダイ辿タドいた赤間アカマもいた。
1337 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ 釣山ツリヤマ   タイノブ タイ庶子ショシ(あるいは,オイ?)であったタイノブビョウショがある。ノブは,京都キョウトから豊前ブゼンシュタイナガタヨって西国サイゴククダり,英彦山ヒコサン居住キョジュウした。
1338 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ 釣山ツリヤマ   ツキヒメ タイノブは,ダンウラ合戦ガッセンヒラマゴりがハゲしくなったため,寿永ジュエイネンガツ平野ヘイヤ親王シンノウ光盛ミツモリ息女ソクジョツキヒメとともにタイツナ金剛コンゴウマルテツイシらにマモられ宗像市ムナカタシび,アナ大寺オオテラ権現ゴンゲンシャコトオオ社辺コソベ津宮ツノミヤカクした。
1339 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ 釣山ツリヤマ   タイノブ タイノブは,剣術ケンジュツ師範シハン北条ホウジョウトキ養子ヨウシ縁組エングミをして,その平和ヘイワらした。
1340 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ 釣山ツリヤマ   タイノブ タイノブは,北条ホウジョウトキ没後ボツゴに,井上イノウエ五郎ゴロウ大夫ダイブ改名カイメイした。ツナ花田ハナダヘイ改名カイメイした。
1341 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ 釣山ツリヤマ   タイノブ タイノブは,釣山ツリヤマ金鉱キンコウ発見ハッケン釣山ツリヤマむ。
1342 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ 釣山ツリヤマ   タイノブ タイノブタダシムラチョウとなり,金鉱キンコウ採掘サイクツサカえた。千軒センケンそうとするコロ大火タイカがあり,その地蔵ジゾウ」を安置アンチした。
1343 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ 釣山ツリヤマ 平家塚ヘイケツカ タイノブ タイノブ夫妻フサイツカである。
1344 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 池田イケダ   イシ 安徳アントク天皇テンノウ ダンウラノガれた安徳アントク天皇テンノウ山中サンチュウミチモグサイワイされるとき,春雷シュンライ遭遇ソウグウ雨宿アマヤドりをした。源氏ゲンジからもノガれることができたため,このイシ感謝カンシャをこめて「五位ゴイ」のクライサズけた。
1345 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ     タイ国政コクセイツカ タイクニセイ タイクニセイツカがある。セキ効験コウケンがある。
1346 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 大井町オオイマチ   タイサマ タイ ダンウラヤブれたタイは,大井オオイムラ田島タシマムラサカイにあるヤマボッした。そのハカは,「タイサマ」(ひらともさま)とばれている。出征シュッセイ軍人グンジン武運ブウン長久チョウキュウ祈願キガンし,木刀ボクトウ献納ケンノウするヒトオオかった。
1347 福岡フクオカ  宗像郡ムナカタグン 玄海町ゲンカイマチ 池田イケダ太平タイヘイ 五位ゴイイシ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウが,腰掛コシカけると元気ゲンキなるイシ五位ゴイサズけた。
1348 福岡フクオカ  宗像郡ムナカタグン 津屋崎町ツヤザキマチ 生家セイカ   静御前シズカゴゼン 静御前シズカゴゼンんでいた。
1349 福岡フクオカ  宗像郡ムナカタグン 津屋崎町ツヤザキマチ 生家セイカ   太郎タロウ静御前シズカゴゼン 静御前シズカゴゼン太郎タロウは,豊後ブンゴタビたった。
1350 福岡フクオカ  宗像郡ムナカタグン 津屋崎町ツヤザキマチ 生家セイカ 井戸イド 静御前シズカゴゼン シズカは,キョウへのぼるマエウスキネ井戸イドシズめた。
1351 福岡フクオカ  宗像郡ムナカタグン 津屋崎町ツヤザキマチ 生家セイカ シズカハカ 静御前シズカゴゼン 静御前シズカゴゼンハカがある。
1352 福岡フクオカ  宗像郡ムナカタグン 玄海町ゲンカイマチ 田島タジマ 宗像ムナカタ大社タイシャ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリ要望ヨウボウで,ソウからハコんだ阿弥陀アミダキョウ石碑セキヒがある。
1353 福岡フクオカ  宗像市ムナカタシ 大井オオイ     タイサマタイムネ タイサマタイムネマツる。
1354 福岡フクオカ  鞍手郡クラテグン 若宮町ワカミヤマチ 女郎ジョロウハラ   平家ヘイケオンナ ミヤコからちてきた一部イチブジョウロウんだところ。
1355 福岡フクオカ  鞍手郡クラテグン 若宮町ワカミヤマチ 女郎ジョロウハラ   平家ヘイケオンナ ミヤコからちてきた一部イチブジョウロウハカがある。
1356 福岡フクオカ  鞍手郡クラテグン 小竹町コタケマチ   供養塔クヨウトウ   平家ヘイケ一族イチゾクウラみがこもるイシカエり,タタられたのでそのイシ供養クヨウトウをつくった。
1357 福岡フクオカ  チクウエグン チクシロマチ 赤幡アカハタ ハタ竿サオ   平家ヘイケハタ竿サオツタわる。
1358 福岡フクオカ  粕谷カスヤグン 篠栗ササグリマチ シロ 平家ヘイケイワ 安徳アントク天皇テンノウ 平氏ヘイシ残党ザントウが,安徳アントク天皇テンノウ御霊ミタマホウじてこもっていた。
1359 福岡フクオカ  粕谷カスヤグン 篠栗ササグリマチ シロ 洞窟ドウクツ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクれた洞窟ドウクツがある。
1360 福岡フクオカ  粕谷カスヤグン 篠栗ササグリマチ 大久保オオクボ 平家ヘイケハカ   平家ヘイケハカがある。
1361 福岡フクオカ  粕谷カスヤグン 新宮町シングウマチ シタ 人丸ヒトマル神社ジンジャ 人丸ヒトマルヒメ 人丸ヒトマルヒメは,チチ景清カゲキヨシタって日向ヒナタかう途次トジに,新宮町シングウチョウドクテンテラ(とこしょ)も末院マツインせているアイダ病没ビョウボツした。現在ゲンザイヒトマル神社ジンジャは,ヒメツカのうえにてられた。
1362 福岡フクオカ  田川タガワグン 添田ソエダマチ     ヒメ乳母ウバ ヒメ乳母ウバとがミヤコからちてきて,機織ハタオリをした。
1363 福岡フクオカ  田川タガワグン 添田ソエダマチ   チョウフチ ヒメ乳母ウバ 源氏ゲンジ詮議センギキビしくなり,ヒコヤマカワフチ投身トウシンした。フチから機織ハタオリオトこえる。このフチを「おチョウフチ」とぶ。
1364 福岡フクオカ  田川タガワグン 添田ソエダマチ 津野ツノ タキ権現ゴンゲン 金子カネコサダ家信イエノブ 金子カネコイエサダイエシンチチは,タキ権現ゴンゲン守護シュゴびることができた。
1365 福岡フクオカ  田川郡タガワグン 添田ソエダマチ 英彦山ヒコサン   安徳アントク天皇テンノウ 寿永ジュエイ年中ネンチュウ安徳アントク天皇テンノウ豊前ブゼンクニシタグン山国ヤマグニアザ宮園ミヤゾノよりこのノガれて,しばらく滞在タイザイし,対馬ツシマワタっていった。
1366 福岡フクオカ  田川郡タガワグン 添田ソエダマチ 英彦山ヒコサン 洞窟ドウクツ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウと12ニンカンニョんだ洞窟ドウクツがある。
1367 福岡フクオカ  田川郡タガワグン 赤池町アカイケマチ シロ 高瀬舟タカセブネ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ山鹿ヤマガシロくとき,高瀬舟タカセブネした。そのときの船頭センドウクラは,船頭センドウとして尊敬ソンケイされた。
1368 福岡フクオカ  田川市タガワシ 伊田イダマチ   ミチテラ チイヨシキョク チイヨシキョク(こごうのつぼね)は二人フタリ女房ニョウボウ大宰府ダザイフ観世音寺カンゼオンジ途中トチュウ成道ジョウドウデラった。境内ケイダイショウヨシキョク供養塔クヨウトウ三基サンキ五輪塔ゴリントウがある。
1369 福岡フクオカ  太宰府市ダザイフシ 太宰府ダザイフ   重盛シゲモリハカ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。このハカは,タイラサダノウがたてたともいわれている。
1370 福岡フクオカ  太宰府市ダザイフシ 太宰府ダザイフ   重盛シゲモリハカ タイ重盛シゲモリ オモカワのほとりに「オモモリハカ」とツタえられるイシホコラがあった。
1371 福岡フクオカ  筑紫ツクシグン 那珂川町ナカガワマチ 安徳アントク 安徳アントクダイ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントクダイ」「御所ゴショオカ」に,2ホンスギがそびえている。そのシタに,安徳アントク天皇テンノウマツホコラがある。「天皇テンノウサマ」とばれている。
1372 福岡フクオカ  筑紫ツクシグン 那珂川町ナカガワマチ 安徳アントク 安徳アントクダイ 原田ハラダタネチョク 安徳アントクダイ」「御所ゴショオカ」は,筑前チクゼン岩戸イワトシロシュ原田ハラダタネチョク居城キョジョウアトツタえられている。
1373 福岡フクオカ  筑紫ツクシグン 那珂川町ナカガワマチ 安徳アントク 安徳アントクダイ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ原田ハラダタネチョクによってこのムカれられた。ムカえたところを「ムカ」(おむかえ)という。
1374 福岡フクオカ  筑紫ツクシグン 那珂川町ナカガワマチ ウソのタニ   平家落人 源氏ゲンジ平氏ヘイシ行方ユクエタズねたが,村人ムラビトはうそをって平氏ヘイシをかばった。それが「ウソのタニ」ののおこりである。
1375 福岡フクオカ  筑紫ツクシグン 那珂川町ナカガワマチ ウソのタニ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ雑煮ゾウニべずにタビったので,村人ムラビトナカにはトシしの雑煮ゾウニべないイエがあった。
1376 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,寿永ジュエイネンハルダンウラホロびたことになっているが,じつはびた。
1377 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ   安徳アントクムラ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウダンウラから太宰府ダザイフびて「オニオウマル」と変名ヘンメイし,安徳アントクムラ成人セイジンした。
1378 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントクムラ成長セイチョウした安徳アントク天皇テンノウは,太宰府ダザイフモド鎮西チンゼイ奉行ブギョウ武藤ムトウムネ養子ヨウシになった。
1379 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ     安徳アントク天皇テンノウ 武藤ムトウムネ養子ヨウシとなった安徳アントクテイは,イマ福岡フクオカ大分オオイタ佐賀サガ長崎ナガサキ熊本クマモト対馬ツシマ壱岐イキ統治トウチした。
1380 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ   対馬ツシマ 武藤ムトウオモナオ 安徳アントクテイには,7ニン子供コドモがいた。長男チョウナンオモナオ対馬ツシマ統治トウチした。
1381 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ   対馬ツシマ 武藤ムトウオモナオ 安徳アントクテイ長男チョウナンオモナオは,寛元カンゲンネン(1246)対馬ツシマ安徳アントクテイムカれることになった。安徳アントク天皇テンノウは,67サイであった。
1382 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ   筑前チクゼン吉井ヨシイ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントクテイは,筑前チクゼン吉井ヨシイかた対馬ツシマけて出航シュッコウした。
1383 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ   串崎クシザキ 安徳アントク天皇テンノウ 筑前チクゼン吉井ヨシイから出港シュッコウした安徳アントク天皇テンノウは,海上カイジョウ時化シケ串崎クシザキ避難ヒナンした。串崎クシザキ地名チメイは,安徳アントクテイ先導センドウした串崎クシザキ志摩シマカミからつけられた。
1384 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ カラハラ ミヤコイシ タイ重盛シゲモリ夫人フジンセンヒメフクヒメ タイ重盛シゲモリって,夫人フジンセンヒメフクヒメ隠棲インセイした。ヒメは,ミヤコイシミヤコシノんだ。
1385 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ 黒髪クロカミヤマ 遺髪イハツツカ タイ重盛シゲモリ 黒髪クロカミヤマタイ重盛シゲモリ遺髪イハツツカがある。(このツカは,夫人フジンのものともいわれる)
1386 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ 黒髪クロカミヤマ 遺髪イハツツカ タイ重盛シゲモリ 黒髪クロカミヤマにあるタイ重盛シゲモリ遺髪イハツツカはには,埋蔵マイゾウキン伝説デンセツがある。
1387 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ ミツヨシ センフクテラ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリ一家イッカ菩提寺ボダイジである。
1388 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 二丈町ニジョウマチ ナミ リュウクニテラ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリ位牌イハイがある。
1389 福岡フクオカ  糸島イトシマグン 前原マエハラマチ   平家ヘイケ落人オチウドハカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドハカがある。れると腹痛フクツウこす。
1390 福岡フクオカ  甘木市アマギシ 田代タシロ     深江フカエマササダ タイキヨキョウ子孫シソンである深江フカエキチ左衛門サエモンタダシサダに,英彦山ヒコヤマ豊前ブゼンボウカミウツった。
1391 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 浮羽ウキハ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウサクラって太宰府ダザイフモウでたところ発病ハツビョウ快復カイフクして,浮羽ウキハ途中トチュウサクラシタヤスむとフタタ発病ハツビョウ
1392 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 浮羽ウキハ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,伊賀イガタイナイサクラのために戦死センシしたため,サクラキラった。そのため,浮羽ウキハでは「サクラシゲればムラれる」といい,サクラではなく椿ツバキえた。
1393 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 田主丸タヌシマルマチ タケ   タイ タイは,家来ケライ伊賀イガタイナイ家長イエナガらと豊後ブンゴ大友氏オオトモシタヨったが,大友氏オオトモシ源氏ゲンジガワについたため,筑後チクゴ草野クサノ太郎タロウトコロった。しかし,草野クサノ源氏側ゲンジガワについたため,タイ家長イエナガらは草野クサノたれてんだ。
1394 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 八女ヤメ   阿弥陀アミダサマ 平家ヘイケ落人オチウド タイ草野クサノたれたが,ノコりのモノ八女ヤメノガれた。たちをホウムり,阿弥陀アミダサマとしてそのウヤマった。
1395 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 八女ヤメ   タイ神社ジンジャ タイ 八女ヤメ里人サトビトは,阿弥陀アミダサマとしてウヤマった。その,このタイ神社ジンジャとなった。
1396 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 八女ヤメ   タイ神社ジンジャ タイ 八女ヤメノガれた平家ヘイケ落人オチウドは,八女ヤメみ「服部ハットリセイ名乗ナノった。
1397 福岡フクオカ  八女ヤメグン 黒木クロキ       黒木クロキは,文治ブンジネン(1186)鹿児島カゴシマから平家ヘイケ追捕ツイブのためにやってきた黒木クロキタスノウ築城チクジョウした城下町シロシタチョウである。緒方オガタセイ小松コマツセイイエがある。
1398 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 田主丸タヌシマルマチ   ハカ タイ ハカウシろにミチがある。そこを乗馬ジョウバのままトオルると落馬ラクバした。ハカきをえたところ,落馬ラクバしなくなった。
1399 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 田主丸タヌシマルマチ     伊賀イガイエナガ 伊賀家長が,平知盛の代わりに討ち死にした。
1400 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 田主丸タヌシマルマチ 久留米クルメ キョカワ 松田マツダ タイ二位ニイアマ安徳アントク天皇テンノウマモり,巨瀬オオセ川筋カワスジ久留米クルメノガれ,長者チョウジャ松田氏マツダシのもとにカクマわれた。
1401 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 田主丸タヌシマルマチ   ツカ   ツカがある。これは,家長イエナガハカともいわれる。
1402 福岡フクオカ  八女市ヤメシ 田主丸タヌシマルマチ 今寺イマデラムラ ヒカリデラ 伊賀イガ家長イエナガ 伊賀イガ家長イエナガツマは,二人フタリ子供コドモつれて八女市ヤメシ今寺イマデラムラヒカリテラカクんだ。そのアタラムラ(八女市ヤメシ)にモグキョ
1403 福岡フクオカ  八女市ヤメシ 田主丸タヌシマルマチ 今寺イマデラムラ   伊賀イガイエナガオトウト 伊賀イガ家長イエナガオトウトチカラツヨく,村人ムラビトは「アラヒト」とんだ。
1404 福岡フクオカ  浮羽郡ウキハグン 田主丸タヌシマルマチ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウフネからりたところをという。
1405 福岡フクオカ  久留米市クルメシ 京町キョウマチ   筑後川チクゴガワ 平家ヘイケ落人オチウド 筑後川チクゴガワ入水ジュスイした平家ヘイケ将兵ショウヘイは,河童カッパになった。
1406 福岡フクオカ  久留米市クルメシ 瀬下セシタマチ     平家ヘイケ落人オチウド 九十90入道ニュウドウショウマエ大明神ダイミョウジンアラワれ,平家ヘイケ一門イチモン牛馬ギュウバマモガミになったとげた。
1407 福岡フクオカ  久留米市クルメシ     筑後川チクゴガワ 平家ヘイケ落人オチウド 筑後川チクゴガワ入水ジュスイした平家ヘイケ一門イチモン牛馬ギュウバタタったので,ガクソウしてアラぶるタマシイシズめた。
1408 大分県オオイタケン 玖珠郡クスグン 玖珠町クスマチ   カメミヤコ神社ジンジャ 筒井ツツイナニガシ 筑後川チクゴガワ入水ジュスイした平家ヘイケ鎮魂チンコン祭礼サイレイを,筒井ツツイナニガシ玖珠町クスマチカメミヤコ神社ジンジャツタえた。
1409 福岡フクオカ 久留米市クルメシ     筑後川チクゴガワ 平家ヘイケ落人オチウド 筑後川チクゴガワキョカワ平家ヘイケ落人オチウドレイによる管弦カンゲンゴエがする。これをくと,瘋癲フウテンビョウになったり,オボれたりした。牛馬ギュウバくとタオれた。
1410 福岡フクオカ 久留米市クルメシ     筑後川チクゴガワ 千代チヨアマ 筑後川チクゴガワキョカワ平家ヘイケ落人オチウドレイによる管弦カンゲンゴエいてタオれたモノは,千代チヨアマジュしてスクった。人々ヒトビトは,千代チヨオンナアマ御前ゴゼンシタった。
1411 福岡フクオカ 三井郡ミイグン   川北カワキタショウ 筑後川チクゴガワ 千代チヨアマ 天満テンマンカミカンナギギャクである中村ナカムラ童女ドウジョ呪符ノロイフサズかるとカミがかりし,千代チヨ中村ナカムラ神楽カグラソウ水天宮スイテングウマツるようにと託宣タクセンした。
1412 福岡フクオカ 久留米市クルメシ       タイミギチュウ タイモリマゴミギタダシは,チチであるトキショウ篳篥ヒチリキ千代チヨアマケンじ,中村ナカムラ童女ドウジョ神楽カグラエンじた。
1413 福岡フクオカ 久留米市クルメシ       千代チヨアマ 千代チヨアマは,118サイボッした。
1414 福岡フクオカ 久留米市クルメシ       千代チヨアマ 真木マキ右忠ミギチュウ中村ナカムラ童女ドウジョ結婚ケッコンして,左忠ヒダリチュウまれた。
1415 福岡フクオカ 久留米市クルメシ     リンテラ 千代チヨアマ タイモリサイ(ひとし)は日輪ニチリンテラオトズれ,千代チヨアマのあとをぎ,マツショクとなった。
1416 福岡フクオカ 久留米市クルメシ 洗町アライマチ     千代チヨアマ 千代チヨアマハカがある。
1417 福岡フクオカ 久留米市クルメシ     水天宮スイテングウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウが8サイトキに,「ワレ水天宮スイテングウモウすなり」とったためそのいた。
1418 福岡フクオカ 久留米市クルメシ ギョ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドがこのられた。それをホウムったのがワカシュウツカ
1419 福岡フクオカ 久留米市クルメシ 荒木町アラキマチ   日輪寺ニチリンジ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウカクみ,この崩御ホウギョ。そこに日輪寺ニチリンジっている。安徳アントクセイノコっている。
1420 福岡フクオカ 久留米市クルメシ 荒木町アラキマチ シロクチ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,篠山シノヤマ地頭ジトウ松田マツダ別荘ベッソウで,天然痘テンネントウのため崩御ホウギョ。25サイであった。(28サイ崩御ホウギョセツもあり)
1421 福岡フクオカ 久留米市クルメシ 国分町コクブマチ   十三13ツカシャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ残党ザントウ13ニンにをした。
1422 福岡フクオカ 久留米市クルメシ 長門ナガトイシ   長門ナガトイカリイシ 平家ヘイケ落人オチウド 長門ナガトクニからびてきた平家ヘイケ一門イチモンは,長門ナガトから持参ジサンしたイシフネツナいだ。八幡ヤハタ神社ジンジャイカリイシノコっている。
1423 福岡フクオカ 久留米市クルメシ 安武ヤスタケムラ   日輪寺ニチリンジ 安徳アントク天皇テンノウ 小篠オザサヤマ崩御ホウギョした安徳アントク天皇テンノウ遺体イタイを,有馬アリマ久留米クルメ安武ヤスタケムラウツし,そこに観音堂カンノンドウてた。イマ,そこは日輪寺ニチリンジになっている。
1424 福岡フクオカ 久留米市クルメシ 小森コモリマチ     二位ニイアマ 久留米市クルメシ小森コモリマチヤブナカに,二位ニイアマハカがある。
1425 福岡フクオカ 久留米市クルメシ       安徳アントク天皇テンノウ 藤原フジワラタネムスメ玉江トウノエは,安徳アントク天皇テンノウツカトモらした。
1426 福岡フクオカ 久留米市クルメシ   サギハラ 千寿チズイン 安徳アントク天皇テンノウ 藤原フジワラタネムスメ玉江トウノエ安徳アントク天皇テンノウは,サギハラ千寿チズインらした。
1427 福岡フクオカ 久留米市クルメシ   サギハラ 千寿チズイン 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ千寿チズイン井戸イドカタワらに椿ツバキいているのをて,種継タネツグブンタマワった。イワく「椿ツバキ八千代ヤチヨ寿コトホぎ,井桁イゲタフカチギりを宿ヤドすとかや」。
1428 福岡フクオカ 久留米市クルメシ   サギハラ 千寿チズイン 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウのお世話セワをしていたジョウアツアマフミタマワった。「シロタマ椿ツバキりてヒトシャマイらすとてイロ白玉シラタマ椿ツバキ八千代ヤチヨとぞむ」
1429 福岡フクオカ 久留米市クルメシ   サギハラ 千寿チズイン 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,27サイ崩御ホウギョした。
1430 福岡フクオカ 久留米市クルメシ   サギハラ 千寿チズイン カミ 藤原種継の娘玉江は安徳アントク天皇テンノウ子供コドモカミ」をんだ。
1431 福岡フクオカ 久留米市クルメシ   サギハラ 千寿チズイン ゼン寿ジュアマ 玉江は,禅寿尼と号し,千寿院で天皇の菩提を弔った。「わだつみ]の歌が残る。
1432 福岡フクオカ 久留米市クルメシ   サギハラ タネベツアンアト ゼン寿ジュアマ 藤原フジワラタネベツアンアトは,4皇子ミコショウする。
1433 福岡フクオカ 筑後市チクゴシ 鶴田ツルタ   ムネキヨハカ タイムネキヨ 伊賀イガ10ロウオモフサが,出家シュッケをしたタイ兵衛ヒョウエ宗清ソウセイ再興サイコウ依頼イライ。しかし,ギャクサトされた。この宗清ソウセイハカノコっている。墓標ボヒョウカキをとるとタタられる。
1434 福岡フクオカ 筑後市チクゴシ 尾島オジマ   ツカ タイムネキヨ タイムネキヨ平氏ヘイシ残党ザントウ死骸シガイアツめてツカをつくった。1ツカ2ツカがそれである。
1435 福岡フクオカ 八女市ヤメシ 今山イマヤマ   タイラ知盛トモモリハカ 家長イエナガ タイラ知盛トモモリ家臣カシンであった伊賀イガ平内ヒラナイ左衛門サエモン家長カチョウは,知盛トモモリのかわりにタタカ散華サンゲした。
現在ゲンザイ,「知盛トモモリハカ」とばれているのは,ジツ家長カチョウハカである。
1436 福岡フクオカ 八女市ヤメシ 今山イマヤマ   荒人アラヒトカミ 家長イエナガ 家長イエナガ家族カゾクは,今山イマヤマカクんだ。荒技アラワザって生計セイケイてていたので,近隣キンリン人々ヒトビトは「荒人アラヒト」とんだ。
1437 福岡フクオカ 八女市ヤメシ 今山イマヤマ     家長イエナガ 家長イエナガ子孫シソンは,武蔵ムサシクニ服部ハットリキョウ出身シュッシンであったため,「服部ハットリ」と名乗ナノった。(八女市ヤメシ今山イマヤマ資料シリョウは,こちらをごランください)
1438 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ   障子ショウジタケ 坂梨サカナシ 平家ヘイケ落人オチウドは,カナメカワ決戦ケッセンヤブれ,障子ショウジタケヒソめた。ヒル山中サンチュウカクれ,ヨルになるとサトた。「タイ」と名乗ナノることはできないため,「坂梨サカナシ(さかがない)」と名乗ナノった。現在ゲンザイ,「タイ(デーラ)」の集落シュウラクヒトは,ほとんど坂梨サカナシセイである。[注:「坂梨」は阿蘇豪族の名前。阿蘇に,坂梨一族の本拠打ちである「坂梨」がある。三加和町。菊水町などでも,坂梨一族は阿蘇神社の創建と関わりつつ,地域の有力土豪として活躍した。
1439 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ   タイ(デーラ) 坂梨サカナシ 平家ヘイケ落人オチウドたちは,タイ集落シュウラク安徳アントク天皇テンノウマツるために「現人神アラヒトガミ」のホコラてた。現在ゲンザイも,4ガツ16赤旗アカハタてて祭礼サイレイイトナんでいる。
1440 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   要川カナメガワ 平家落人 松風マツカゼセキまでびてきた平氏ヘイシ武将ブショウは,要川カナメガワ源氏ゲンジタイする最後サイゴ決戦ケッセンイドんだ。
1441 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   物見モノミヅカ 平家落人 要川カナメガワ決戦ケッセンで,平家ヘイケ武将ブショウ物見モノミヅカ指揮シキった。
1442 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ 平家ヘイケホン 平家ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平氏ヘイシ武将ブショウ御霊ミタママツるためにツカモウけられた。現在ゲンザイ築地ツイジハライエがおマツりをしている。(電車デンシャ軌道キドウ敷設フセツりに移築イチクした経緯ケイイがある)
1443 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   射的シャテキハシ 平家落人 要川カナメガワハサんで対峙タイジした源氏ゲンジ平氏ヘイシは,タガいにタタカいをハジめるた。その場所バショは,現在ゲンザイ射的シャテキハシである。
1444 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   ナミガワ 平家落人 要川カナメガワ下流カリュウは,源平ゲンペイ最後サイゴ合戦カッセンけた平氏ヘイシ武将ブショウまった。そのため,「ナミカワ」とばれるようになった。
1445 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   カワ 平家ヘイケ落人オチウド 平氏ヘイシ武将ブショウは,カワ南側ミナミガワジンいて源氏ゲンジムカった。そのため,このカワカワばれるようになった。
1446 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   ナミガワ 平家落人 要川カナメガワタタカいがあってしばらくたったころ,西行サイギョウがこのオトヅ鎮魂チンコン和歌ワカんだ。(平氏ヘイシナニガシウタとのセツもある)「ハギよりゆすりいでたる要川カナメガワ オウギタカナミつらむ」
1447 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   松風マツカゼセキ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ一行イッコウは,太宰府ダザイフまで辿タドいたが菊池キクチ隆直タカナオによってセキめられたため肥後ヒゴクニハイることができなかった。
1448 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ タニケン タニケン 平家ヘイケ落人オチウド 要川カナメガワ合戦ガッセンヤブれた平家ヘイケ落人オチウドは,お牧山マキヤマ金甲山キンコウザン)の頂上チョウジョウチカくにある水源スイゲンタニカクんだ。そこは,タニケン(たんのき)とばれている。ヒデリトキには,頂上チョウジョウキンレイイズミキヨめ,テンタカ烽火ノロシげた。「たんのきばあさん」の霊験レイゲンられる。
1449 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   7レイタキ 平氏ヘイシ女官ニョカン 要川カナメガワタタカいでヤブれた平氏ヘイシ女官ニョカンニンは,カワサカノボり,滝壺タキツボトウじてんだ。そのタキ7レイタキという。
1450 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   7レイミヤ 平氏ヘイシ女官ニョカン 7レイタキウエには,7レイミヤてて平氏ヘイシ女官ニョカンマツった。
1451 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   7レイミヤ 平氏ヘイシ女官ニョカン 7レイタキ入水ジュスイした7ニン女官ニョカンは,ナマズに変身ヘンシンした。皮膚病ヒフビョウ霊験レイゲンがある。
1452 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ   7レイミヤ 平氏ヘイシ女官ニョカン ヒデリのときには,ナマズをいてタキむとアメる。
1453 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ 阿蘇アソ神社ジンジャ 7レイミヤ 平氏ヘイシ女官ニョカン 7レイタキシズんだ女官ニョカンナカのひとりは,下流カリュウナガいた。サトヒトは,その7レイミヤてた。(ウミ阿蘇アソ神社ジンジャ境内ケイダイ
1454 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ   7レイミヤ 平氏ヘイシ女官ニョカン 7レイタキシズんだ女官ニョカンナカのひとりは,下流カリュウナガいた。サトヒトは,その7レイミヤてた。(7レイミヤ
1455 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ 亀谷カメタニ 平家ヘイケハカ 平家ヘイケ落人オチウド 亀谷カメタニ竹藪タケヤブナカ平家ヘイケハカがある。(現在ゲンザイも,五輪ゴリントウなどがクズれつつもノコっている)
1456 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ タイ 六地蔵ロクジゾウ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケをはじめとして非業ヒゴウをとげた英霊エイレイ御霊ミタマシズめるための6地蔵ジゾウが,要川カナメガワ古戦場コセンジョウ川床カワドコから発掘ハックツされた。
1457 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ 海津カイヅ カイウラ 平家ヘイケ落人オチウド ダンウラタタカいにけた平家ヘイケ武将ブショウは,カイウラ戦陣センジンナオしをハカった。
1458 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ 海津カイヅ カイウラ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ武将ブショウホウムったツカノコっている。
1459 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ 海津カイヅ シゲ 平家ヘイケ落人オチウド 山川町ヤマカワマチカナメガワ決戦ケッセンヤブれた平家ヘイケ武将ブショウげてきてキズイヤした。
1460 福岡フクオカ 三池郡ミイケグン 高田タカダマチ 海津カイヅ シゲ 平家ヘイケ落人オチウド 山川町ヤマカワマチカナメガワ決戦ケッセンヤブれた平家ヘイケ武将ブショウ薬師ヤクシ如来ニョライドウ建立コンリュウした。
1461 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ タニケン マキヤマ 平家ヘイケ落人オチウド 要川カナメガワタタカいにけた平氏ヘイシ武将ブショウは,お牧山マキヤマタニケン水源スイゲン)に集落シュウラクイトナ現在ゲンザイイタっている。
1462 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ 平家ヘイケダイ 平家ヘイケハカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドハカがある。
1463 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ タニ 平家ヘイケハカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドハカがある。
1464 福岡フクオカ 大牟田市オオムタシ 吉野ヨシノ 釈迦堂シャカドウ   平家ヘイケ落人オチウド 吉野ヨシノ釈迦堂シャカドウ平家ヘイケ落人オチウドカクんだ。
1465 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 瀬高町セタカマチ モトヨシ 清水寺キヨミズデラ 緒方オガタ 平氏ヘイシガワ味方ミカタした清水寺キヨミズデラは,源氏ゲンジガワ武将ブショウ緒方オガタによってホロぼされた。
1466 福岡フクオカ 柳川市ヤナガワシ 矢留ヤトメ   六騎ロッキ 平家ヘイケ落人オチウド 柳川ヤナガワ六騎ロッキには,「リョウ」がむ。かれらの先祖センゾは,平家ヘイケ落人オチウドである。
1467 福岡フクオカ 柳川市ヤナガワシ 矢留ヤトメ   六騎ロッキ 平家ヘイケ落人オチウド 六騎ロッキは,難波ナンバゼンナガ加藤カトウフジナイ浦川ウラカワゲンヒダリ衛門エモン鳴神ナキガミ藤助フジスケ是永コレナガ多七タシチ若宮ワカミヤヘイロクである。現在ゲンザイ海岸カイガン沿いの恵比寿様エビスサマ名前ナマエキザまれている。
1468 福岡フクオカ 柳川市ヤナガワシ 矢留ヤトメ   大神宮ダイジングウ 平家ヘイケ落人オチウド 六騎ロッキサトんだ6ニンの平家落人は,寛喜カンキ元年ガンネン(1229)に大神宮ダイジングウ勧請カンジョウした。
1469 福岡フクオカ 柳川市ヤナガワシ 矢留ヤトメ   六騎ロッキ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 大神宮ダイジングウ境内ケイダイに,平家ヘイケ落人オチウドマツ六騎ロッキ神社ジンジャっている。
1470 福岡フクオカ 柳川市ヤナガワシ 矢留ヤトメ   カガミ 平家ヘイケ落人オチウド 大神宮ダイジングウには,平氏ヘイシにまつわるハンカガミがある。
1471 福岡フクオカ 太宰府ダザイフ   カマドヤマ 観世音カンゼオンテラ 安徳アントク天皇テンノウ 長門ナガトクニ豊浦トヨウラ皇居コウキョモウけることのできなかった安徳アントク天皇テンノウは,カマドヤマノボり,太宰府ダザイフ観世カンゼオンテラトドまった。
1472 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   タイムネ タイムネヒキいられて,安徳アントク天皇テンノウ一行イッコウ肥前ヒゼン筑後チクゴ御井ミイグン小篠オシノサンハイった。
1473 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   藤吉フジヨシタネ タイムネヒキいられた安徳アントク天皇テンノウ一行イッコウを,長者チョウジャ藤吉フジヨシタネ出迎デムカえた。
1474 福岡フクオカ 八代ヤツシロ   対馬ツシマ   タイムネ タイムネは,八代ヤツシロハイり,つぎに対馬ツシマワタった
1475 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマは,小篠オザサヤマトドまった。
1476 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   安徳アントク天皇テンノウ 小篠オザサヤマトドまった安徳アントク天皇テンノウは,タネムスメ世話セワをした。
1477 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ世話セワをするようになったタネぐのムスメは,朝日アサヒユメ懐妊カイニンし,子供コドモんだ。
1478 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウタネムスメとのあいだにまれたは,成長セイチョウ出家シュッケしてエイソンゴウした。
1479 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,25サイ天然痘テンネントウのため他界タカイした。
1480 福岡フクオカ 御井ミイグン   小篠オザサヤマ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ崩御ホウギョしたため,ノコされた臣下シンカたちは1イシに1ずつ法華経ホケキョウいて,ヒツギマワりにウズ陵墓リョウボツクった。
1481 福岡フクオカ 八女郡ヤメグン 立花町タチバナマチ 白木シラキ   平家ヘイケ落人オチウド 立花町タチバナマチ白木シラキには平家ヘイケ子孫シソンんでいる。カメヘビマツる。7ユウサトでは,平家ヘイケ追悼ツイトウ800年祭ネンサイ記念キネンしたてられている。
1482 福岡フクオカ 八女郡ヤメグン 立花町タチバナマチ 鹿シカキリ   平家ヘイケ落人オチウド 立花町タチバナマチ鹿シカキリは,平家ヘイケ落人オチウドんでいる。
1483 福岡フクオカ 八女郡ヤメグン 立花町タチバナマチ 田楽デンガクハラ 平家ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家塚ヘイケツカノコっている。「トウハラ」「トウハラ」とばれている。
1484 福岡フクオカ 八女郡ヤメグン 立花町タチバナマチ カタチヤマ 安徳アントク天皇テンノウハカ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウハカといわれる「王子オウジツカ」がある。
1485 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 瀬高町セタカマチ フルソウ都山トヤマ サトシキョウデラ トラ御前ゴゼン フルソウミヤコヤマにあるエイオコテラ観音堂カンノンドウマエ大小ダイショウ五輪ゴリントウがある。これは,トラ御前ゴゼンが,このヤマフモト草庵ソウアンムス曾我ソガ兄弟キョウダイ菩提ボダイトムラうためにてたものである。
1486 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 瀬高町セタカマチ オンナヤマ カガミイケ トラ御前ゴゼン 曽我ソガ兄弟キョウダイ菩提ボダイトムラうために諸国ショコク遍歴ヘンレキしたトラ御前ゴゼンが,オンナヤマ(ぞやま)にイオリムスんだ。そこは,観音堂カンノンドウになっている。マエイケがあり,トラ御前ゴゼンがそのイケオモテ姿スガタウツしていたことから「カガミイケ」とばれている。
1487 福岡フクオカ 山門郡ヤマトグン 山川町ヤマカワマチ トラサカ トラ御前ゴゼン五輪ゴリントウ トラ御前ゴゼン 現在ゲンザイ天文テンモン元年ガンネン(1532ネン)の石塔セキトウ明和メイワ9ネン(1772ネン)の墓石ボセキ2ノコっている。墓石ボセキ下半分シタハンブンは,地蔵尊ジゾウソン台座ダイザ使用シヨウ。これらは,トラ御前ゴゼンハカツタえられる。
1488 福岡フクオカ 福岡市フクオカシ 東区ヒガシク 蒲田カマタ 曾我ソガ兄弟キョウダイハカ トラ御前ゴゼン 蒲田カマタ八幡宮ハチマングウマエフタつのオオきなイシがある。これは,曽我ソガ10ロウユウ5ロウトキハカである。祈願キガンシャは,太刀タチソナえる。
1489 福岡フクオカ 嘉穂郡カホグン 筑穂チクホマチ トラ御前ゴゼンハカ トラ御前ゴゼン 豊前ブゼンクニからトモモノちてきたトラ御前ゴゼンは,サトヤマイタオボッした。トモモノはこのトラ御前ゴゼンハカてて,ムスメ百合ユリヒメ一緒イッショんだ。ムカシ,このモリにはタマい,ると腹痛フクツウをおこした。
1490 福岡フクオカ 朝倉郡アサクラグン 三輪町ミワマチ 当初トウショ トラ御前ゴゼンハカ トラ御前ゴゼン テンシノブミミ神社ジンジャ境内ケイダイトラ御前ゴゼンハカがある。
1491 福岡フクオカ 浮羽郡ウキハグン 浮羽町ウキハマチ 山北ヤマキタ トラ100ドウツカ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン10ロウ供養クヨウのため100ドウてた。
1492 広島県ヒロシマケン 庄原市ショウバラシ 7ツカマチ   7ツカハラ タイアツシタマヒメ カタモノアツシさん」 「二条ニジョウ殿トノ大納言ダイナゴン資賢公の姫君は,いつぞや三井寺お室の御所,月の宴(うたげ)のありしとき,敦盛は笛の役,その姫君は琴の役,琴を弾ずるその姿,一目ご覧よ盛卿,深き思いが恋となり,文をまよわす懸け橋に,十四で輿入れ遊ばされ,あけて十五の春の頃,早や戦い始まりて,ついに平家は破れたり。あとに残りし姫君は,源氏の詮議の厳しさに,嵯峨の隠れ家迷い出で,行方ユクエ定めぬタビソラナガナガれて北の吉備キビ永江ナガエサトのそのあたり,アツシキョウ最期サイゴを,うたいツタえてイマもなおフル形見カタミノコりしは,アワれなりける次第シダイなり」
1493 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウシタガって来島ライトウした従者ジュウシャが,イマんでいる。長浜ナガハマは,安徳アントク天皇テンノウ末裔マツエイツタえられる。安永ヤスナガ日高ヒダカ岩切イワキリアクタ菊池キクチ馬場ババ渡辺ワタナベ児玉コダマなどの諸氏ショシは,テイとともにシマ従者ジュウシャ子孫シソンである。
1494 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ   長浜ナガハマ 安徳アントク天皇テンノウ末裔マツエイとされる長浜ナガハマには,『長浜氏ナガハマシ嫡流チャクリュウ系図ケイズ』がツタわっている。それによると,屋島ヤシマタタカいにヤブれたアト主将シュショウとするシュグンハナれて,資盛トシモリショウとして安徳アントク天皇テンノウホウじてユタカ海峡カイキョウ南下ナンカし,硫黄島イオウジマ到着トウチャク。そこにいた。
1495 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ   平家ヘイケ落人オチウド 安徳アントク天皇テンノウホウじて硫黄島イオウトウくことになった平氏ヘイシ武将ブショウたちは,西岳ニシタケ本陣ホンジンき,越中コシナカ次郎ジロウ兵衛ヒョウエ永良エイラザキシロ上総カズサ五郎兵衛ゴロベエ赤尾アカオジョウ福原フクハラ季長スエナガ北高岡キタタカオカジョウ分散ブンサンして,長期チョウキ体制タイセイトトノえた。
1496 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ   長浜ナガハマ 長浜ナガハマ当主トウシュは,天皇テンノウ子供コドモ隆盛タカモリ親王シンノウの34代目ダイメにあたる末裔マツエイである(1969ネン)。隆盛タカモリ親王シンノウハハは,クシタケノコツボネ(くしげのつぼね)である。また,資盛トシモリムスメであるともいわれている。
1497 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,硫黄島イオウトウ建長ケンチョウネン(1255)崩御ホウギョ。(64サイ崩御ホウギョセツもある)
1498 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ 安徳アントク天皇テンノウハカ 平家ヘイケ落人オチウド 安徳アントク天皇テンノウ平家ヘイケ武将ブショウハカが,集落シュウラク西北セイホクにある台地ダイチウエにある。天皇テンノウハカ中心チュウシンに,30くらいの自然石シゼンセキハカっている。
1499 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ   平家ヘイケ落人オチウド 安徳アントク天皇テンノウは,大隅オオスミ半島ハントウ西岸セイガンウシフモトカクんだ。
1500 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン 三島村ミシマムラ 硫黄島イオウトウ 俊寛シュンカンハカ 俊寛シュンカン 俊寛シュンカンホコラがある。
1501 鹿児島カゴシマ 肝属郡キモツキグン 内之浦ウチノウラマチ キシ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド子孫シソンむ。末裔マツエイは,栗栖クリス平田ヒラタ向原ムコウハラ門脇カドワキ白坂シラサカなどのセイである。
1502 鹿児島カゴシマ 肝属郡キモツキグン 内之浦ウチノウラマチ キシ 平田ヒラタ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 永禄エイロク年間ネンカン(1558〜1569)のムナフダ発見ハッケンされた。
1503 鹿児島カゴシマ 肝属郡キモツキグン 内之浦ウチノウラマチ 大浦オオウラ 八幡ハチマン神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ末裔マツエイである大浦オオウラむ。文書モンジョ焼失ショウシツ大浦オオウラ屋敷ヤシキを「ヤマンテラ」とぶ。山法師ヤマホウシ関係カンケイがあった? 丸石マルイシを1メートルのタカさにげたハカがある。
1504 鹿児島カゴシマ 肝属郡キモツキグン 佐多サダマチ ヘンツカ タイアサシンハカ 平家ヘイケ落人オチウド タイラ朝臣アサオミハカ」が多数タスウっている。「ヘンツカ」は「平家ヘイケツカ」がナマったものか? 平家ヘイケ落人オチウドフネ南下ナンカしたりに,佐多サダオキ暴風雨ボウフウウにあい,一部イチブフネがこのハマ漂着ヒョウチャク。『硫黄島イオウトウ権現ゴンゲン』の記事キジ合致ガッチする。
1505 鹿児島カゴシマ 肝属郡キモツキグン 佐多サダマチ ヘンツカ タイアサシンハカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ末裔マツエイセイは,来栖クルス(くるす)・シマ村山ムラヤマ中野ナカノ平原ヒラハラ熊野クマノホソ那波ナハである。
1506 鹿児島カゴシマ 肝属郡キモツキグン 佐多サダマチ シマ 八島ヤシマ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド ウエ(うわごもり)は,平家ヘイケ末裔マツエイ宗家ソウケである。ホカに,高橋タカハシ国分コクブ鮫島サメジマなどがある。田畑デンパタ共有キョウユウし,は3ネン一度イチドクジ(くじ)でめる。ハタケは,5ネン一度イチドクジで,各人カクジンアタえる。
1507 鹿児島カゴシマ 薩摩郡サツマグン 甑島コシキジマ     平家ヘイケ落人オチウド 3つのシマによって構成コウセイナカコシキ平良タイラサトなどの集落シュウラク平家ヘイケ末裔マツエイんでいる。セイは,天辰アマタツ梶原カジワラ西山ニシヤマである。下甑シモコシキは,ゴウサコ(ごうさこ)・オカがある。
1508 鹿児島カゴシマ 薩摩郡サツマグン 甑島コシキジマ     平家ヘイケ落人オチウド シロウマ源氏ゲンジカタであるため,シロウマわない。
1509 鹿児島カゴシマ 枕崎市マクラザキシ 板敷イタジ     平家ヘイケ落人オチウド シロウマ源氏ゲンジカタであるため,シロウマわない。
1510 鹿児島カゴシマ   ウシ   キョ神社ジンジャ 安徳アントク天皇テンノウ キョ(こせ)神社ジンジャは,安徳アントク天皇テンノウマツる。シロウマって神社ジンジャマエトオルると落馬ラクバする。
1511 鹿児島カゴシマ   ウシ   キョ神社ジンジャ 安徳アントク天皇テンノウ 沖合オキアイ白帆シラホのままのハシフネキンじていた。禁忌キンキオカすと,突風トップウにあってワザワいをけた。
1512 鹿児島カゴシマ   ウシ     長浜ナガハマ 長浜ナガハマイエでは,門松カドマツわりにシイカザる。五家荘ゴカノショウ緒方家オガタケ鹿児島県カゴシマケン福山町フクヤママチ曾木ソギ鹿児島県カゴシマケン大隅オオスミウシ長浜家ナガハマケ大隅オオクマ内之浦ウチノウラ大浦オオウラウラタニなどでは,シイえる。
1513 鹿児島カゴシマ 大隅オオスミ 曾木ソギ   小杉コスギ神社ジンジャ 平重盛タイラノシゲモリ 小杉コスギ神社ジンジャは,平重盛タイラノシゲモリマツっている。シロウマいてマエトオると,ウマ病気ビョウキをしてぬといわれる。
1514 鹿児島カゴシマ 大隅オオスミ 大根ダイコンウラナ 坂元サカモト   平氏ヘイシ落人オチウド 白馬シロウマってはならない。
1515 鹿児島カゴシマ 熊毛郡クマゲグン 中種子ナカタネシママチ     タイラ信基ノブモト 平清盛タイラノキヨモリ曾孫ヒマゴであるヒラシンモト種子島タネガシマ初代ショダイシマシュである。『種子島タネガシマイエ』に,北条ホウジョウ時政トキマサからシマ屋久島ヤクシマクチコレ永良エイラシマ硫黄島イオウジマ竹島タケシマ七島ナナシマおよそ十二島ジュウニトウタマワるとシルされている。
1516 鹿児島カゴシマ 熊毛郡クマゲグン 咖喇カラッ列島レットウ     平氏ヘイシ落人オチウド タイ資盛トシモリシュウ源平ゲンペイタタカいの最中サイチュウハハマモられ薩摩方七サツマカタ7シマノガれてきていた。平田ヒラタ日高ヒダカセイオオい。
1517 鹿児島カゴシマ 大島郡オオシマグン アクイシシマ     平氏ヘイシ落人オチウド アクイシシマは,平家ヘイケ落人オチウドによってヒラかれた。江戸期エドキ藩政ハンセイ時代ジダイは,重罪ジュウザイ遠島エントウヒトは,ヘビアクイシの2トウナガされるサダめであった。ムラ墓地ボチのとなりにある「オシロドン」は,首切クビキヤマであった。
1518 鹿児島カゴシマ 阿久根市アクネシ     神社ジンジャ 平氏ヘイシ落人オチウド 阿久根アクネ(おとし)に神社ジンジャがある。には,平家ヘイケ末裔マツエイんでいる。
1519 鹿児島カゴシマ 出水市イズミシ     厳島イツクシマ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平氏ヘイシ落人オチウドんでいる。近年キンネン移築イチクされた。従来ジュウライは,川沿カワゾいにあった。
1520 沖縄オキナワ     多良間タラマトウ   平家ヘイケ落人オチウド 多良間タラマトウ首長シュチョウであった土原ツチハラ豊見トヨミ親春オヤハルミナモト(16世紀セイキ実在ジツザイ:ぬたばるとぅゆめしゅんげん)のチチペーンスは平家ヘイケまれであった。
1521 沖縄オキナワ     多良間タラマトウ   平家ヘイケ落人オチウド シマでは,ヒラ(たいら)・平屋ヒラヤ西ニシ(ひらやにし)といてペーンスという。首里シュリオウ系統ケイトウ源氏ゲンジであったため,平家ヘイケ武者ムシャは,「タイラ」をモチいつつ「平屋ヒラヤ西ニシ」(ペーンス)というようになった。1727ネンアツムタダキュウ』には,平屋ヒラヤ西ニシスジの「おそろ」というモノ天神テンジン信奉シンポウし,シママモカミフネ路守の神を天から降臨させたとの記載がある。(→原田)
1522 沖縄オキナワ     多良間タラマトウ ナカスジ塩川シオカワ 平家ヘイケ落人オチウド 多良間タラマトウ平家ヘイケナガれてきて,イワシタアメツユをしのいだ。ミナモトタメアサ子孫シソン沖縄オキナワ統治トウチしたため,平屋ヒラヤ西ニシ改名カイメイした。雨露アメツユをしのいだ場所バショは,ナカスジ塩川シオカワである。大東亜ダイトウア戦争後センソウゴまでホネがあった。
1523 沖縄オキナワ     ミズノウシマ   平家ヘイケ落人オチウド ミズオサシマにも,ペーンスがいた。土原豊見親春源の係累ケイルイであった(兄弟キョウダイ?)。鍛冶屋カジヤであった。
1524 沖縄オキナワ     ミズノウシマ   平家ヘイケ落人オチウド 神様カミサマへのソナモノがなくなる。これは,ヤマナカカクれていたペーンスユタカオヤべていたからだった。シマヒトは,トヨオヤ食事ショクジアタえた。カレは,大和ヤマトハカツクった。
参考サンコウ青森県アオモリケン義経ヨシツネ伝説デンセツ (1)観音カンノン信仰シンコウ (2)渡海トカイ安全アンゼン (3)豊漁ホウリョウ祈願キガン (4)ウミミチ (5)リクミチ街道カイドウ
a-1 青森県アオモリケン     竜飛タッピミサキ オビシマ ミナモト義経ヨシツネ 源義経yオビいたことにチナみ「オビシマ」とばれる。弁財天ベンザイテンマツられているため,「弁天島ベンテンジマ」ともばれている。
a-2 青森県アオモリケン     竜飛タッピミサキ オビシマ ミナモト義経ヨシツネ 源義経yコイをしたアイヌ首長シュチョウムスメが,義経ヨシツネったアト弁財天ベンザイテンした。弁財天ベンザイテンは,フネカミであった。
a-3 青森県アオモリケン     竜飛タッピミサキ ヨロイジマ ミナモト義経ヨシツネ 源義経yいでいていったヨロイシマになったため,「ヨロイジマ」と名付ナヅけられた。
a-4 青森県アオモリケン     竜飛タッピミサキ ヨロイジマ ミナモト義経ヨシツネ 源義経yは,渡海トカイ安全アンゼン祈願キガンするため,ウミ龍神リュウジンヨロイササシズめた。
a-5 青森県アオモリケン     三瓶サンベワン カマサワ ミナモト義経ヨシツネ 源義経yウママメくために使用シヨウしたカマイワしたため,「カマサワ」とばれるようになった。ここは,渡海トカイフネ停泊テイハクフネちの人々ヒトビトニギわった。
a-6 青森県アオモリケン     三瓶サンベワン カブトイワ ミナモト義経ヨシツネ 源義経yは,渡海トカイ安全アンゼン祈願キガンするため,ウミ龍神リュウジンカブトササシズめた。
a-7 青森県アオモリケン     三瓶サンベワン ウマヤイワ ミナモト義経ヨシツネ カブトイワマエウマヤイワがある。ウマヤイワには,ミッつのアナがあいているが,これは源義経y三頭サントウ龍馬リョウマツナいだところである。義経ヨシツネは,このウマって無事ブジ渡海トカイたした。
a-8 青森県アオモリケン     三瓶サンベワン 三厩ミンマヤ ミナモト義経ヨシツネ ウマヤ」は,「サンウマ」と表記ヒョウキされる。
a-9 青森県アオモリケン     三瓶サンベワン 義経ヨシツネデラ ミナモト義経ヨシツネ 津軽ツガル三十三33バンリュウウマヤマ観音堂カンノンドウ義経ヨシツネデラ)の由来ユライ平泉ヒライズミノガれた源義経yは,当地トウチ辿タドりついた。渡海トカイをするために,3バン観音様カンノンサマイノりをササげた。白髪ハクハツオキナアラワれ,駿シュン三頭サントウ源義経yアタえた。義経ヨシツネはそのおレイに1スンブン白銀ハクギン観音像カンノンゾウ安置アンチし,蝦夷エゾにわたっていった。寛永カンエイ年間ネンカンエンクウオトヅイオリムス木造モクゾウホトケった。
主要シュヨウ参考サンコウ文献ブンケン
全国平家会編,『平家ヘイケ伝承デンショウ総覧ソウラン』,シン人物ジンブツ往来オウライシャ,2005ネン5ガツ
武田タケダシズカ,『落人オチウド伝説デンセツタビ 平家ヘイケタニ秘話ヒワ現代ゲンダイ教養キョウヨウ文庫ブンコ660,社会思想社シャカイシソウシャ,1969ネン9ガツ
荒木アラキ博之ヒロユキ,『日本ニホン伝説デンセツ体系タイケイ』13カン北九州キタキュウシュウヘン,みずうみ書房ショボウ,1987ネン3ガツ
濱名ハマナココロザシマツ,『天草アマクサ伝説デンセツシュウ』,アシ書房ショボウ,1986ネン2ガツ
高田タカダマチ教育キョウイク委員会イインカイ,『民話ミンワ伝説デンセツ』,1993ネン7ガツ
肥後ヒゴ国史コクシ
高田タカダマチ』1958ネン10ガツ
海津カイヅ郷土キョウド』1978ネン8ガツ
三加和町ミカワマチ』1994ネン3ガツ
立花タチバナマチ』1996ネン3ガツ
鹿毛康夫「今山荒人神由来記」(八女市今山) 筑後郷土史研究会誌7号1986・3 など研究会ケンキュウカイ発表ハッピョウされた一連イチレン論考ロンコウ
内藤ナイトウヒロシホマ伝説デンセツチカラ青森県アオモリケンサンクルワ地域チイキにおける義経ヨシツネ静御前シズカゴゼン伝承デンショウ−」,説話セツワ伝承デンショウ学会ガッカイ説話セツワ伝承デンショウガク』14ゴウ,2006ネン3ガツ,[松前マツマエ街道カイドウ沿カタチ義経ヨシツネ伝説デンセツ点在テンザイすることをアキらかにしている。]
原田ハラダ信之ノブユキ沖縄オキナワ多良間タラマトウ平家ヘイケ伝説デンセツ」,『新見ニイミ公立コウリツ短期タンキ大学ダイガク紀要キヨウ』26カン,2005ネン,[沖縄県オキナワケンには平家ヘイケ伝承デンショウがほとんどないとされているが,「ウミミチ」をツウじて日本ニホン列島レットウ多良間タラマシマとの交渉コウショウがあり,そのような事情ジジョウ背景ハイケイとして平家ヘイケ伝承デンショウシマにあったことをアキらかにしている。]
高橋タカハシ一郎イチロウ海原ウナバラ平家ヘイケ伝承デンショウ奄美アマミ説話セツワ原像ゲンゾウ−』3メグミ書店ショテン,1998年5月
注意書チュウイガ
(1) 平家ヘイケ伝承デンショウ九州キュウシュウ北部ホクブヘン福岡県フクオカケン長崎県ナガサキケン佐賀県サガケン大分県オオイタケン熊本県クマモトケン)のデータベースです。鹿児島県カゴシマケンせつつあります。
(2) プロットに分割ブンカツしてあります。(採取サイシュした説話セツワスウかけジョウオオくなっています。)
(3) 重複チョウフクがあります
(4) コードは,1001からハジまっています。採取サイシュしたスウは1000をいてください。
(5) 『平家ヘイケ伝承地デンショウチ総覧ソウラン』のデータも収録シュウロクしていますが,載録サイロクされていない部分ブブン補填ホテン目的モクテキとしています。
(6) 『曾我ソガ物語モノガタリ』なども視野シヤれて,ややヒロめに採取サイシュをしています。
(7) データは,随時ズイジ増補ゾウホされます。
(8)沖縄オキナワ多良間タラマトウ平家ヘイケ伝説デンセツ掲載ケイサイしました。沖縄県オキナワケン平家ヘイケ伝承デンショウとして注目チュウモクアタイします。
(9)本州ホンシュウ最北端サイホクタン青森県アオモリケン]の義経ヨシツネ静御前シズカゴゼン伝承デンショウ参考サンコウまでに掲載ケイサイしました。 平家ヘイケ落人オチウド伝承デンショウとの共通点キョウツウテン:(1)観音信仰 (2)渡海安全 (3)豊漁祈願 (4)海の道 (5)陸の道(街道)
口上コウジョウ
(1) 著作権チョサクケンは,e-officeNAKAIが保持ホジしています。[CEO]仲井ナカイ克己カツミ
(2) 教育キョウイク研究ケンキュウ目的モクテキとする場合バアイは,自由ジユウにお使ツカいください。
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野崎ノザキヒロシ全国ゼンコク平家ヘイケカイ福岡県フクオカケン支部シブ 揚羽アゲハカイ
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加藤カトウ信一郎シンイチロウ福岡県フクオカケン山門郡ヤマトグン山川町ヤマカワマチ郷土史キョウドシ研究家ケンキュウカ
牛島ウシジマ寿ジュヒト[福岡県山門郡山川町教育委員会]
サカイマサ福岡県フクオカケン三池郡ミイケグン高田タカダマチ郷土史キョウドシ研究家ケンキュウカ
大津オオツ治人ナオト福岡県フクオカケン柳川市ヤナガワシ郷土史キョウドシ研究家ケンキュウカ
竹井タケイトオル福岡県フクオカケン柳川市ヤナガワシオオフクテラ住職ジュウショク
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リンク
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→ http://www.vill.shiiba.miyazaki.jp/event/heike_matsuri/heike_matsuri_top.htm 椎葉シイバムラ平家ヘイケマツ
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平家ヘイケ落人オチウド伝説デンセツ日本ニホン伝奇デンキ伝説デンセツ大辞典ダイジテン)  平氏ヘイシのルーツをタズねて
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