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肥後・日向 の 平家落人伝説

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肥後・日向の平家落人伝説

資料
「肥後の伝説」牛島盛光 第一法規s50/1/10

那須余一の墓
阿蘇郡蘇陽町柏字大見口の那須家の墓地にある。那須家は、余一の子孫。
高さ1.5m幅約0.9mの自然石。文字の判別はできない。
周囲には一門の17基の墓がある。
近くのお堂に、余一の愛刀「百足丸」ムカデマルが納められている。(「肥後の伝説」)

小松の塔
上益城郡矢部町大矢野原の里岩に高さ0.6mの塔が立っている。
この塔は、「小松の塔」と呼ばれる。
文治元年(1185)頃に壇ノ浦で敗れた平家の一門がここを落ちのびていくときに、
幼い姫が死んだので葬った跡という。その姫君は、平重盛の娘であった。
(「肥後の伝説」)

安徳天皇御陵
(1)
上益城郡清和村緑川字鷲峰寺の小塚山中に安徳天皇御陵と伝えられる御陵がある。
石垣をめぐらした側に大きな檜ヒノキが聳え、これが陵標だと伝えられている。
この陵墓の南側に天皇の菩提寺であった鷲峰寺跡があり、
現在の地名はその名にちなんだものとなっている。(「肥後の伝説」)
(2)
宇土市立岡町晩免バンメンに宮内庁管理の「晩免古墳」(装飾古墳)がある。
この古墳は、文治元年(1185)壇ノ浦の合戦で入水した
第81代安徳天皇(当時7歳)の陵墓と伝えられる。
古墳に近いところに岩古曽町イワコゾマチには、昔、如来寺があった。
開基は、第82代後鳥羽天皇第三皇子の寒厳義尹カンガンイイン禅師であり、
禅師の伯父にあたる安徳天皇の霊を弔うために、
唐からの帰国後に墓の近いところに寺を建てたという。
(「肥後の伝説」)

平重盛の墓
鹿本郡鹿本町来民クタミ字御宇田ミウタの実際寺ジッサイジ、法筺印塔ホウキョウイントウがある。
これは、平重盛の墓といわれる。
昔、平家滅亡後に平貞能サダヨシがこの地に勢力を持っていた御宇田氏を頼ってきたときに、
この塔を建てて菩提を弔ったという。
また、重盛の家来の大橋三左衛門がひそかに重盛の遺骨を埋めて、
墓を建てたとも伝えられている。(「肥後の伝説」)

資料
「日向の伝説」瀬戸山計佐儀s51/5/25第一法規

椎葉の村名
 寿永四年1185三月二十四日、壇ノ浦の合戦であれほど栄華を誇った平家もついに滅び去った。
多くの平家武将は海の藻屑と消えたが、あるものは平家再興のために山中に隠れ、
木の実や草を囓って生き延びていた。
源氏は、それら平家落人の掃討のために那須大八郎宗久を豊後から日向に遣わした。
宗久は、豊後の国から山を踏み分けて臼杵の山奥まで来たが、
山が険しいので鞍岡村で馬を捨てて十根川べりに出たところ、
遠くの山中に煙が立ち上がっているのが見えた。
こで、進んでいくと果たして、平家の残党が隠れ住んでいた。
衰弱しきってもはや闘う気力も失せ果てた平家の人々の姿を見て、
宗久は憐憫の情を禁じ得ず、鎌倉には平家残党を討伐したと虚偽の報告をして、
五ヶ所に陣屋を構えてここに居住し、残党に農耕の方法などを教えた。
陣屋は、椎の葉で葺いた粗末なものであったので、この地を椎葉村というようになった。
(「日向の伝説」) 

背見部落[「背見」の名前由来]
東臼杵郡諸塚村横尾に背見という部落がある。
 昔、諸塚の中滝に平家の落人が住んでいた。
 しかし、源氏の追討軍が白旗をなびかせて向こうの山から降りてくる。
 村人たちは早く逃げろと落人に伝えたが、
 腕に自信のある落人たちは逃げるのを拒み、合戦となった。
 しかし、弓矢を持った大勢の源氏軍の前には平家に勝ち目はなく、
 ついに大檜ヒノキの下で割腹して果てた。
 この状況を横尾妥女之丞ウネメノジョウという武士は、
 山上から背伸びをして見ていたので、この地を背見というようになった。
 背見の部落に眼病が絶えないのは、
 横尾の武士が平家落人を助けようとせず傍観していたからだという。(「日向の伝説」)


鶴富屋敷
 宮崎県東臼杵郡椎葉村に、寝殿造り風を遺す茅葺きの民家がある(重要文化財指定)。
 これは、平家を討伐するために派遣された那須大八郎宗久が
 鶴富姫と住んだ屋敷であると伝えられている。
 寿永四年壇ノ浦で敗れた平家の残党は、九州の山々に潜み生活していた。
 源氏の総大将源頼朝は、那須余一宗高に平家討伐を命じたが、
 結局弟の大八郎宗久が追捕のために椎葉村までやってきた。
 椎葉村の平家残党は、食べるものもなく、
 椎の葉で葺いたきわめて粗末な家にすみかろうじて雨露を防いでいた。
 この惨状を目の当たりにした宗久は討つにしのびず
 「平家の残党は悉く追討して滅ぼした」
 と鎌倉に報告して、椎葉村の平家一族に農耕の方法を伝授し、
 平家の守護神である厳島神社の勧請にも手をかした。
 椎葉村で暮らすこと数年、
 宗久は鎌倉に帰ることになったが侍女鶴富がこどもを孕んでいることを知った。
 「もし男の子が産まれたら鎌倉の自分の所に送れ。
 女の子ならば、鎌倉に送らなくてもいい」と言い、太刀と系図を置いて出立した。
 生まれたのは女の子であったので椎葉にとどまり、日向の各地の那須一族の祖となった。
(「日向の伝説」)


宮村の平家墓
 北諸県郡三股町宮村の寺柱にある国分貢宅の背後に丘がある。
 この丘の中腹に「列案山即身居士、瀬尾肥後守」と刻まれた自然石があり、
 近くの瀬尾家が代々供養を続けている。
 これは、平家の残党がここまで逃げ延びたがついに力つきこの地で果てたので、
 当時介抱してやった瀬尾家が石塔を建ててやり代々供養を怠りなく続けているということである。
 竹藪の中に、七基の石塔がある。(「日向の伝説」)



平家の大将墓
 串間市都井の名谷ナタニの東の岡に、十数基の古い石塔が立っている。
 昔、源平の合戦で敗れた平家方の大将肥田藤五は、
 十七人の家来と共に舟に乗って都井村に逃れ、名谷の土地を開墾して一生を終えた。
 五輪塔は大将肥田藤五のもので、近くに立つ群小の石塔は家来のものであるという。
 現在、都井に住む肥田姓の人々は、藤五の末裔である。
 海に臨む名谷部落の東にある山を舟迫山と称するが、
 その山頂に幅4m長さ60mに及ぶ掘り割りがあった。
 これは、源氏が攻めてきたときの防塁であるという。
 しかし、墓地や掘り割りは、昭和17年頃の大災害でみな流れてしまった。
 (「日向の伝説」)

景清廟カゲキヨビョウ
 宮崎市下北方、本庄へ通ずる平和台の下、県道のわきに景清廟という社と石塔がある。
  文武兼ね備えた藤原悪七兵衛景清は平家に仕えていたが、
 源氏に敗れた後は隠れて頼朝の命を狙っていた。
 しかし、清水寺に潜伏していたところを捕らえられてしまった。
 景清の才覚を惜しんだ畠山重忠が、景清に頼朝側につくよう説得したが聞き入れず、
 自ら両眼をえぐり差し出した。
 景清に叛意のないことを知った頼朝は死罪を免じて日向の勾当に任じたので、
 景清は宮崎の生目イキメに来て、後に下北方で死んだ。
 それで、里人たちは、ここに社を建てて景清を祀って今日にまで至った。
(「日向の伝説」)

高宮八幡宮
 日向市役所の南隣に、高宮八幡宮がある。
  壇ノ浦の戦いに負けた平家は、
 二位の尼(平時子)が幼い安徳天皇を抱いて海に沈んだと伝えられるが、
 それは史実ではなく、
 新三位中将平資盛が、小松少将平有盛や左馬頭平行盛らとともに数百の部下を率いて、
 安徳天皇を守りながら寿永四年(1185)三月十五日の夕暮れ時に壇ノ浦を抜け出し、
 十七日の夜に日向の細島に着いた。
 資盛は、日向・豊前・豊後の情勢を探るために十三日間滞在し、奄美大島に向かった。
 平家の残党を追って日向に来た那須大八郎や工藤祐経の二将も細島に上陸し、
 鶴ヶ丘八幡を勧請した。これが、富岡八幡宮となったのである。(「日向の伝説」)


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