豊前街道の落人伝説

肥後と筑後の梶原伝説
付:和仁御前の悲話

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[福岡県高田町平(平家の里)へ(付:画像)]
[福岡県山川町谷軒(たんのきばあさん)」へ(付:画像)]
谷軒(平家の里)タンノキに住んでいた不思議な老婆の話です。



熊本県 三加和町 伝説地図
平家・梶原・万里小路
3つの川と街道と阿蘇神社に注目
YAHOO地図情報(三加和町)

三加和町[梶原・平家 伝説]

肥後・筑後の梶原伝説


  • (1)梶原景時・景季
  • (2)荒巻大膳(平家落人)
  • (3)和仁御前
  • (4)万里小路藤房

  • (5)阿蘇信仰

連絡は、office NAKAIへ



三加和町には,三つの川が流れています。
・和仁川
・十町川
・岩川
和仁川と岩村川の阿蘇神社は,
平氏に関わる伝説が残っています。
このサイトでは,
板楠(十町川)
に伝わる梶原伝説について紹介します。

参考
・梶原等『梶原景時−−知られざる鎌倉本体の武士−−』
  新人物往来社 2000年11月
・『肥後国史』
・『瀬高町史』
・『三加和町史』
・國武慶旭『天正時代と和仁一族』熊本日々新聞情報文化センター 1993・2
・仲井克己「筑後と肥後の七霊宮−−7人の姫君の悲劇−−」
       (『帝京大学福岡短期大学紀要』13号,2001年3月)
・瀬高郷土史会『ふるさとの昔ばなし−−瀬高の民話と伝承−−』(瀬高町教育委員会0944-62-5210)
・『国史大辞典』 吉川弘文館
・『日本史大事典』平凡社
・永井晋『鎌倉幕府の変換点』日本放送出版協会
  cf.「なぜ頼家の失敗だったのか−−梶原景時事件の真相−−」P.64
・『日本伝記伝説大事典』角川書店

梶原景時 と 景季 梶原景時(?〜1200) 相模(サガミ)国 鎌倉郷 梶原(現在の藤沢市東南部)に住んだため, 父祖から地名の「梶原」を名のるようになった。 (熊本県三加和町では,地名から「板楠」氏となる)。 梶原景時略歴 鎌倉幕府を創立した武将の一人。板東八平氏。通称,「平三」。 系譜:@常陸少掾良茂の孫致成の末裔。鎌倉権五郎景政より四代の子孫。父は景長。    A村岡五郎良文の子忠通の末孫。鎌倉権大夫景通より五代,父を景清とする。     (『三浦系図』) 治承4年(1180)8月 石橋山合戦  大庭景親の軍に参じ頼朝追討に加わった。  敗走し山中の伏木の中に身を隠した頼朝を見逃してやり危機を救った。  戦後,頼朝の配下になり頼朝の信頼を得る。  木曽義仲との戦いでは,土肥次郎実平とともに軍監に任じられた。  搦手の義経軍と合流し,宇治川の合戦に参加。 寿永3年(1184)正月  木曾義仲との戦いにおいて、土肥次郎実平とともに軍監に任じられた。  子息梶原景季の武勇伝。 寿永3年(1184)2月5日  一の谷合戦 大手の範頼軍の軍監として参戦。  生田の森に取り残された子息梶原景季を救出するために  二度にわたって敵陣に切り込んだ  (梶原が二度の懸カケ『平家物語』巻九)。  捕虜となった平重衡を鎌倉に護送。 元暦2年(1185)2月  屋島攻略の義経軍に加わる。  渡海をするにあたって「逆櫓の論」で義経と激しく対立。  義経は、景時の静止を振り切り四国屋島に向けて嵐の中を出航。  義経は大勝利を治める。 元暦2年3月壇ノ浦の合戦  景時は義経と先陣争いをする。  義経が先陣をつとめ、源氏の勝利を決定的なものとする。  これらの遺恨から義経を讒訴し、義経没落の因を作った。  (『平家物語』巻十一腰越) その後,侍所の所司に任じられ御家人の監督統率にあたったが、 しばしば讒言をしたため御家人たちの反感をかっている。 文治3年3月:  土佐国夜須行宗の戦功を讒訴して対問を求められ、鎌倉中の道路の整備を命じられた。 文治3年11月:畠山重忠に反逆の意があると讒訴。 正治元年(1199)10月  頼朝死去。  結城朝光を新将軍頼家に讒訴。  和田義盛・三浦義村ら主要な御家人66名が鶴岡八幡宮に参会して,  景時弾劾の連判状を作成。  大江広元に託し、頼家に差し出した。  頼家は景時に陳弁を求めたが弁解できずに、景時は鎌倉から追放された。   正治元年11月13日  一族を率いて相模国一ノ宮に下向した景時は、  甲斐の武田有義を将軍に立てようと謀反を企てた。 正治2年正月19日  再挙を図り上洛を目指す。  駿河国清見関にて,その地の住人吉香小次郎らの追討を受け、  激戦の結果,狐ケ崎において景季・景高・景茂らと共に敗死(梶原景時の乱)。  清水市大内矢崎の梶原堂に墓がある。   子孫  景高の子息景継は幕府に仕えた。  景茂の子孫は、室町時代以降近畿地方に住んだ。  鎌倉末期 極楽寺僧 梶原性全 や「沙石集」を編纂した無住などがいる. 

福岡県瀬高町 叡興寺
梶原景季,山門を修復
福岡県瀬高町叡興寺

筑後の梶原伝承(福岡県瀬高町) 梶原景季,瀬高叡興寺山門の普請奉行となる!  福岡県瀬高町女山の古僧都コソズの山頂付近に叡興寺があり, 曽我兄弟の五輪塔がある.  叡興寺  開基は良源。 (良源は『往生要集』を執筆。『往生要集』は地獄の諸相を解き明かす根本資料。) 【伝承】 十郎の恋人であった虎御前は,善光寺に参詣。 その後, 九州瀬高にある叡興寺の山門を 梶原景季 が 普請奉行となって再建することを知り, はるばる瀬高の女山神籠石の 源吾谷 水門近くに住まいを定め, 曽我兄弟の供養塔2基を建立し, 女山から叡興寺まで日参して兄弟の冥福を祈った. 女山の梅野邸の上の方に 虎御前が朝夕顔を洗った「鏡池」がある.

福岡県瀬高町 叡興寺 曾我兄弟
「虎」が曾我兄弟を祀ったとされる五輪塔
福岡県瀬高町叡興寺 曾我五輪塔

山川町に「虎坂」があり, 虎御前の墓があった. 「虎御前の墓」は,現在不明. 道路拡張をするときに埋められ, それを知った築地原正英氏(福岡県文化財保護指導委員)が すぐに現場を訪れ探索しましたが, 現在に至るも埋められた場所を特定できていません。  曽我物語概要  父 河津三郎祐通  兄 曽我十郎祐成スケナリ    建久4年(119395月28日     新田四郎忠綱(忠常)に討たれる。22歳。  弟 曽我五郎時致トキムネ 兄が討たれた翌日に刑死。    20歳。 伊豆地方のにおける領地争いで, 伊藤祐親と工藤祐経の間にトラブルが発生し, 祐親の子である河津祐通が暗殺された。 兄弟は北条時政に仕えながら 父の敵として祐経を殺害する機会をうかがっていた。 建久4年源頼朝が富士の裾野で狩りを催したときに, 兄弟は祐経を討ち取って念願の敵討ちを成就させた。
  肥後の梶原伝承(熊本県三加和町)  熊本県玉名郡三加和町にも,梶原氏に関する伝承が残っている.  (1)上太田黒「梶原霊社」    当村ノ内梶原ト云フ所ニアリ.往日地中ヨリ此像ヲ掘出シテ祀レリ. 梶原氏ノ宅後也.    (『肥後国史』玉名郡南関手永上太田黒村「梶原霊社」)     太田黒村にある梶原というところに「梶原霊社」がある.     その昔,地中より像を掘りだして祀ったのである.     掘りだした場所は,梶原氏の住んでいたところであった.  (2)板楠村「岩見権現社」」 或説寿永年中1182-1185 梶原平三景時下向シテ岡原ニ在住ス.     (私云板楠景貞ハ景時ガ末葉ニテ代々板楠ヲ領シ岡原ニ在住シ板楠ヲ以テ家号      トス.)     其妻石州物部神主ノ女也.彼妻病悩太タ重カリシ故産神物部明神ヲ祈テ平癒ス.     依テ寿永元年十一月十五日建社物部石見権現ヲ勧請スト云.     ある説に,寿永年中に梶原景時が下向して岡原に住んだと言われている.    (筆者である自分が考えてみるに,      板楠景貞は,景時の子孫であって代々板楠を領有し,      「板楠」を名前にしていたものであろう.)     その妻は石見国物部の神主の娘であった.     あるとき病がはなはだ重かったので, 産土神ウブスナカミである 物部明神さまにお祈りしたところ, たちまち平癒したのであった. そこで,寿永元年十一月十五日に社を建てて, 物部石見権現を勧請したのであった.    板楠には,板楠川が流れ,平家の落人が身を投げたという「ヘンジ淵」があります。   ・「ヘンジ淵」    或説平氏淵ト云フ.板楠川流ニアリ.広十間深二間.    南関志云寿永年中平族此淵ニ身ヲ投ス故ニ,平氏淵ト云.     ある説には,こう言われている.板楠川に「平家淵」というところがある.     広さは約18m,深さは約3.6mである.     『南関志』によると,寿永年中に平家落人がこの淵に身を投げたので,     ここを「平家淵」と呼ぶようになったのである.    板楠には,西光寺がある.    開基は,行基.    瀬高の談義所である宝衆寺や南関の西福寺と同木で作られた行基作の薬師仏がある    (『肥後国史』玉名郡南関手永板楠村「西光寺医福山」).    戦国末期には,板楠氏一族は,板楠村から東の丘を越えた岩村をも領有した (『三加和町史』).    古記集覧昔噺聞書云,板楠ハ梶原左馬五十四町ヲ領ス.其弟ヲ岩村民部ト云々.    (『肥後国史』玉名郡南関手永上太田黒村「梶原霊社」,上板楠村「岡原城跡」)    岩村には,「平景俊」に由来する「殿様の墓」がある.        「殿様の墓」刻銘(『三加和町史』)     線太二重の輪光十本,阿弥陀如来像.     側面,関西路肥後国東郷庄岩村下総守平景俊享禄三年1530天庚寅吉日.     岩村の上流には,平山温泉がある.   「平山温泉」    温湯由来記云    桓武帝延暦九年国人瘧疽疥癬ヲ疾者多ク男ハ不耕女ハ不織,共ニ飢寒ニ及フ.    故阿蘇大明神ニ祈此,明神仮ニ人体ニ現シ一夜ノ程ニ    山ノ高キヲ開キ谷ノ深キヲ埋メテ此地平カニ成シ故平山ト号ス.    忽チ温湯涌出シテ浴スル者悉ク癢痾痼疾癒タリ.    依之同所前河内ト云所ニ阿蘇大明神ヲ祀ルト云.   (『肥後国史』 山鹿郡山鹿手永平山村)    岩村は,小高い丘陵地帯を岩村川が浸食することによってもたらされた    南北に細長い村である。    東と西は切り立った崖に挟まれている.    平山温泉の下流東岸に,        長寛二年(1164)菊池隆直 田業タガタ阿蘇神社を勧請。    (健磐竜命・阿蘇津姫命)    (注:長徳二年996に阿蘇二宮を勧請し,菊池隆直によって修復されたものか?)    寿永二年(1183)十一月     平貞能家臣 荒巻大膳 が岩村阿蘇神社を勧請。    (健磐竜命・阿蘇津姫命・草部吉見神     西岸に同じく荒巻大膳によって勧請された松尾明神社が祀られている。     これらの神社は共通して崖を削り境内の敷地を確保している.     寿永二年十月は,菊池隆直によって南関「松風の関」が閉じられ,大宰府まで南     進してきた安徳天皇が緒方三郎維義によって     北へ転ずることを強いられた時期にあたる。     岩村阿蘇神社の勧請には、     それなりの理由とそれに付随する伝承があったと想像される。         状況から勘案するに,       寿永年間に落人となった平貞能家臣荒巻大膳が       菊池隆直の支配地である岩村に住み着き、       今でも蝮が多い河川敷の開墾に精を出すことになり,       そこに同じく平家の血筋を誇る板楠の梶原一族が合流した     といった内容の伝承があったか?     三加和町伝説の梶原景時や景季も,     正治二年1200には駿河国清見関で討たれるため,     板楠一族が梶原の流れをくむとすれば境遇の相違はさほどなかったと考えられる.       そのとき,荒巻大膳が大宰府より南進した道を推定すると,,,,。       南関松風の関を避け,立花の田楽原へ。       「平家塚」と称される石碑が遺っている.       このあたりを,「塔の原トウノハル」「闘の原トウノハル」と呼ぶ。       松尾明神に祈りを捧げ,松尾川の源流へと遡り,       坂本城のあたりへ抜けて岩村に至る道であった?       立花町には,「王子塚」(「皇子か塚」とも称される)があり,       この塚は安徳天皇のお墓と言われている.       一ノ瀬・中通り・白木には「平」姓の人が住んでおり,       八女市平から来たと伝えられている.       豊前街道の「腹切り坂」(平家の武将が腹を切ったという伝承が残る)から     岩村川を遡上し平山温泉に至る道には,     二つの阿蘇神社のみならず光行寺・宝持寺    (「真言ノ古跡.本尊地蔵」『肥後国史』)     瑞厳禅寺    (禅ノ古跡,本尊釈迦文殊普賢.阿弥陀堂.     鎮守として松尾大明神(『肥後国史』),     至源寺(禅の古跡.本尊釈迦(『肥後国史』))     洞泉寺(宗旨不明,本尊釈迦)     西蓮寺(宗旨不明,本尊観音)     がある。     地名「岩村」とあるように豊かとは言い難い土地に,     なぜこれだけの寺・お堂・神社が建っていたか?     「さんせう太夫」や「小栗判官」などにおいて明らかなように     湯には祓い清めの霊力があると信じられていたことを考えるならば,     平山温泉に至る道筋に観音や地蔵などの小さな堂宇が建てられ     湯治に訪れた善男善女の喜捨を募ったものであろうか.       三加和町には三本の川が流れているが,すべての流域に「平家」が住んでいる.       十町川 : 梶原の流れをくむ板楠一族が住む。       岩村川 : 平貞能家臣の荒巻大膳が住む。       和仁川 : 平家の流れを汲む一族が住む。     正治二年1200 山森阿蘇神社 勧請      坂梨弥吾助藤原義光によって阿蘇本宮より分霊。      坂梨家は有力な阿蘇一族。      福岡県高田町平      (ここでは,坂梨一族が平家.ナマズを食べないなど,阿蘇神社信仰の面影を       残す)      熊本県菊水町久井原      (ここでは,平家は深草家であり,坂梨家は久井原阿蘇神社を勧請し共に住ん       できた)          和仁川中流の野田には平野佐久佐ヒラノサクスケの墓があり,先祖は平家であり     源平の乱の時にこの里に住んだとの記載が彫り込まれている.

合志郡竹迫手永平村 善光寺 真言宗ノ古跡也. 俗伝テ云,鞍嶽山善光寺ハ, 大同元年806坂上田村麻呂筑後国 清水寺 建立有シ時, 夢ヲ感シテ当寺建立ト云フ事,清水寺ノ旧記ニ著名也ト云. 本尊薬師仏ハ,其時ニ安置セシ行基ノ作ト云. 今ヤ一堂ニ安ス. 文治二年源頼朝卿代参トシテ梶原平次左衛門尉景時太刀一腰ニ砂金ヲ添テ寄付ス.      天正十四年薩摩の川上左京が再来し,什宝寺器などを奪い寺をも破壊したという.   天正十四年三月四日,島津は龍造寺を島原で亡ぼす(『赤星』).


山本郡正院手永山城村「大橋城跡」(『肥後国史』) 尚、山本郡大橋城には、筑後守家貞の孫で肥後守貞能の子平貞経が在城していた。 「大橋氏家伝」などには、以下の伝承が記載されている(抄出)。 鎌倉時代になって梶原景時が平家討伐のために下向し、 文治二年1186三月四日に落城した。 平貞経は鎌倉の松葉ケ谷に禁獄。 妻は薩摩に逃れ男子を出産。 子供は、摩仁王丸(あるいは、一妙丸)と名乗った。 七歳で出家、勤学し十二歳の時に, 乳母子若松とともに鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮にて法華経を読誦しているときに お忍びで参詣に来た二位の尼に認められ、頼朝に拝謁。 感嘆した頼朝は、父の貞経を許すとともに肥後国の半分を与えた。 その後摩仁王丸は、大橋左衛門通貞と号して大橋城にて七十二歳まで過ごした。 このような法華経霊験譚が流布した背景として、 法華経を護持する琵琶法師や瞽女(ゴゼ)などの語りがあった?  注:『赤星』の若君の名前は,「松若」.   鹿児島に逃れるという展開は同じ. 薩摩琵琶・肥後琵琶の世界で育まれた「語り」があったことを物語る? 福岡県立花町白木妙見社 平家落人の里とされる白木には, 亀蛇の上に座した「八大竜樹妙見菩薩」が祀られており 後背には北斗七星が刻まれている. 白木からさらに山奥に入り横ケ倉をへて山頂に至るすぐ手前の窪地に 「王子塚(皇子か塚)」がある. この塚は安徳天皇のお墓であり,この塚に馬をつなぐと馬が病気になるとの伝承がある.  (立花町史)  (野中平氏のご教示による). 平家落人伝承を有する妙見社として, 八代郡野津手永道後郷宮原村の三宮妙見社がある.  陣迹誌曰,応保元年八月越中前司平盛俊在国ノ時,妙見ヲ勧請シ祠ヲ立三宮妙見ト  称ス.  平氏没落ノ後盛俊カ子越中次郎兵衛盛嗣,此社内ニ隠ル.後,都ニ上リ,  又,但馬国ニ隠住シ郷民ト戦テ遂ニ討死ス.  ★木崎郡湯嶋ノ川端ニ墓アリ.★始,当地 ニ蟄居セシ時,栽タル松,今ニ存ス.  所ノ人,是ヲ次郎兵衛松ト云.  (『肥後国史』八代郡野津手永宮原村「三宮妙見社」)
比較考察<山川七霊宮「平家落人」と三加和町「和仁合戦」>

熊本県 三加和町 和仁御前悲話 田中城(和仁)落城の物語 田中城遠景

三加和町[田中城遠景] 三加和町「和仁合戦」(赤池淵の話) 参考文献: 『三加和町史』 成田守『盲僧の伝承』三弥井書店・ 『肥後琵琶語り』23・24 天正十五年1587 , 三加和村田中城の和仁一族が, 肥後国主佐々成政に攻められて滅亡する物語. 田中城主 和仁親長 長男 親実 次男 親範 末子 親宗 姫 浅香の前 親宗は, 顔が赤く目が輝き, 髪は左右に分かれ手足が熊のようであったため, 父から「人鬼」と呼ばれていた. 人鬼親宗は, 父親長が大友宗麟より賜った南蛮娘を 母にして生まれた子供であった.

熊本県 三加和町 田中城七仏 田中城の崖に彫り込まれています

三加和町[田中城 七仏] 青い目をした母親は 死ぬときに自分のお墓は海の見えるところに作ってくれと 言い残したために, 三加和の山頂に葬られた. そこは,今でも「南蛮毛」と言われる. 人鬼親宗は,田中城が落城すると 深い傷を負いながらも母親の眠る「南蛮毛」まで辿り着き, そこで自害して果てた. 浅香の前は,一族の辺春城主親行に嫁いでいた. 親実は,秀吉の薩摩征伐にも軍功があり, 本領百二十町を安堵され一族と共に住んでいた. しかし,佐々成政が肥後国主となって 田中城にも攻撃の手が伸びてきた. 田中城に籠城したのは, 和仁親実・親範・親宗, そして辺春親行を中心に八百人. 攻めるのは佐々成政率いる八千余騎, さらに立花からは加藤勢, 小早川秀包率いる軍兵も加勢し軍勢は一万騎を超えた.

熊本県 三加和町 和仁御前 断崖の壁面に七仏が彫られている

三加和町[田中城七仏] 戦いは,十月の末に始まった. 城兵はよくしのいだが,多勢に無勢, ついに十月末には本丸とニノ丸を残すのみとなった. このとき佐々成政方の戦死者も多く, 思案の末に辺春親行の欲心を利用しようと 矢文を射て裏切りを約束させた. 勇猛盛んな親実ではあったが, 辺春親行の放った間者によって謀殺された. 寄せては,親行の合図で城を攻め, ついに田中城は落ちたのであった. 親実の夫人は懐妊中であったが, 五歳になるつた姫とともに 春野東弥が城から連れ出し, 和仁氏の菩提寺である東勝寺の和尚に頼んで 三池に逃してもらった. 春野東弥は,和尚の制止を振り切って 再び田中城に引き返し一族と運命を共にした. 次男親範夫人は,九歳の娘と侍女や家老の娘七人, それに老僕一人の総勢十人で夜半に城を抜け出した。 暗黒の野道を, 芝塚・浦辺・春殿原・吉地原 と敵の目を避け通り抜け(「道行文」) かねて親宗が庇護してきた中林の祈祷寺に ようやく辿り着いたのは一番鶏の鳴く時刻. 早速住職に 「しばらくお匿カクマい賜れ」 と頼んだが, 「ここは寄せ手の陣中にて厳しいご詮議もござればもってのほか」 とすげなく断られた. 「しからば,御坊のお導きあって三池へ落とし賜らぬか」 と頼んでみたものの, 「できかね申す」 とつれない返事. 「せめて,湯茶なりとも振る舞いくだされたし」 と訴えても, 「城方の入来は迷惑千万.早々に立ち退かれませ」 と頑として受け入れないどころか, 涙ながらに頼む一同に優しい言葉の一つもかけてはくれなかった.

熊本県 三加和町 七郎神 男女和合の神 子孫繁栄・五穀豊穣を祈念

三加和町[七郎神] 諸行無常は世の道理. 没落していく者に対しては,世間の風は冷たく吹く. 和仁氏が隆盛であったときにあれほどねだり事を言ってきたこの住職も, すでに没落した今となってはこの有り様. 祈祷寺まで落ち延びれば命を拾えるかもしれぬ と運をつないできた姫君たちも ついに一縷の望みを絶たれ すがる藁しべもなくなった落人一行は 再び敵陣である闇の中へと消えていった. ようやく白々と夜が明けるころ, 一行が目にしたものは,和仁川のいつにかわらぬ悠久の流れであった. せせらぐ川瀬の水音は生き死にかけた浮き世のことなど知らぬげに いつものように響きわたり,赤池の淵へと注ぎこんでいた. このとき田中城のあたりから激しい銃声と雄叫びの声が聞こえてきた. そちらに目を向ければ, 紅蓮の炎が空を焦がし城のあちこちから煙が舞のぼっていくのが見える. ついに,その瞬間が訪れた. 炎の中に逃げまどい矢弾と白刃に倒れいく城兵たちを, 数次の戦で目の当たりにしてきた女たちには, 夫や子供たちが悶え倒れる修羅地獄の様子を心に描き, ただ恐ろしく思慮も分別も失せ果てて 絶望のみが覆いかぶさってきたのであった. 「もはや生きて何の甲斐もなく,三途の川とやらで旦那方を待ちましょう. 冥土の旅は道連れの多い方が楽しいでしょう」 親範夫人は,そう言うと,老僕に娘を淵に落とすよう命じた. 武士の意地という憎しみのない殺し合いのため, 生きる希望を失った女の, 我が手で我が子を殺す哀れさは胸を突くばかりであった. 夫人は,躊躇する老僕をさらに励まし,娘を岩から落とさせた. 娘はいったん水に沈んだがまたすぐに浮かび上がり岸にたどり着く. 夫人に叱られた老僕は,さらに娘を突き放す. しかし,娘はまた浮き上がり岩にしがみついた. その後は,いかに夫人が責めるとも老僕は涙に濡れる顔を上げることもできなかった. しかたなく夫人は自ら淵に身を入れて 「母様,お許しくだされ」 と泣き叫ぶ娘の頭にてをやって 「未練です.許してたもれ,許してたもれ」 と繰り返し言いつつ娘を水に沈めたことこそ哀れなり. この有り様を見た女たちは,それぞれ着物の上から紐で足を結わえ, 次々に赤池淵に身を沈めていった. 夫人は,最後に老僕に向かって 「そなたには,この期に及ぶまでひとかたならず世話になった. もし生き延びる道あらば長生きして,我らが菩提を弔ってくだされ」 と言い置いて,自らも娘の沈んだ淵に身を投じた. 赤池の淵はすぐにこれらの悲劇など知らぬげに, いつもと変わらぬ冬の静寂を取り戻した. その後,夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いた. 村人たちは,「和仁石宮」としてお祀りした. 夏の夜には,和仁川の赤池淵に時ならず楽の音する時がある. こんなときには, 人々は「和仁御前」のお帰りだとして, 酒やお供えご飯などの供物を淵に投げ込む習わしがあった. すると,沛然と雨が降るという.

菊池川 和仁石宮 昔,菊池川の船だまりがあったところから 崖をから登って参拝

菊池川 和仁石宮 注1:「和仁御前」という名前から考えられることは?    ゴゼさん(盲目の女琵琶語り)が    語りに関与していた? 注2:「盲おとし」という呼称は?   (1) 瀬高の清水寺   (2)高田町「地蔵渡し」   (3)菊水久井原から三加和に抜ける途中 (3)の伝説 母親が盲目. 孝行息子が母親をおぶって医者(生目神社・観音様など) に行こうと連れ出す. 深い谷に来たとき, 母親はこれ以上子供の迷惑になってはならないと, 自ら谷に身を投じる. 注3:「和仁石宮」は?   現存.菊水町古墳公園の対岸あたり.   昔は,川から直接登った.   現在では,   川沿いに道ができて石段が途中で切れている.   菊池川は行き交う船が多く,   ここは舟だまりであったと考えられる.   和仁石宮の祭日には船の上に縁日が立った。 注4:「赤池淵」の「赤」に関して,由来は?   不明.   大刀緒阿蘇神社に由来する「青池淵」がある.   神社の下は和仁川の深く澄んだ淵があって,   そこを「青池淵」と称した由.   阿蘇の山田村には   「赤池・青池・小池・泡池・坪池・蛇女池・男池」  (小池の七池)がある. 注5:山川町の七霊宮が,和仁一族の女性七人入水譚と結びつく?   不明.   七霊宮は,福岡県山川町・熊本県三加和町・熊本県菊池市にあるが,   それぞれ小さな瀧上に位置し,瀧の上に神社を祀る形式は同じ.   さらにすべて,阿蘇神社と何らかの関係が認められる.   また,山川七霊宮と菊池七霊宮,さらに山鹿業平(七霊宮)は   すべて皮膚病に対する霊験があらたかとされる点でも共通する. ※七霊宮・大きな磐・瀧・皮膚病・近隣にナマズ伝説・阿蘇信仰圏 注6:山川町高田町七霊宮に琵琶法師などによる「語り」があった?   不明. 山川町「七霊宮」と「和仁合戦」とに共通するプロット(話の筋). <1>戦いに敗れ,七人の姫君が入水自殺. <2>入水した場所には,「七霊宮」が建っている. <3>七人のうち,一人が川下に流され,そこで祀られる. <4>阿蘇神社信仰圏

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