蒙古襲来[世界最強の軍事国家を迎え撃つ鎌倉幕府]
この資料は、以下の資料とセットになっています。
1)『蒙古襲来絵詞』有江本(PowerPoint資料)
2)『蒙古襲来絵詞』から読む元寇(word資料)
13世紀、元は、中国・ロシア・西アジアにまたがる大帝国を築いた。
チンギス・ハーンの孫のオルダとバイダルはポーランドに侵入。
蒙古の騎馬軍団の強さは圧倒的で、ヨーロッパの重装備騎士団も対抗できなかった。
神聖ローマ帝国(ドイツ)のリーグニッツ(ワールシュタット)でドイツ・ポーランド連合軍と戦い撃破。
敵の大将ハインリッヒU世の首を取った。そして、東アジアに目を向けた。
そこには、黄金の島ジパングがあった。
フビライは、高麗を制圧し、南宋を滅ぼした。
二つの国が降伏をしたことによって、フビライは資金と人間を手に入れて、日本へ出撃を命じた。
フビライにとっては、たとえ兵士と船を失っても実質的な痛手をあまり感じないですむ戦いであった。
降伏をした南宋の兵士は、フビライにとって不要な軍隊であり「消耗品」と見なしても差し支えなかった。
南宋人は、鋤や鍬を持って参戦したという。
蒙古の襲来は、国が滅びた民の、悲しい戦いとしての側面も持っていた。
日本は、「神風」によって危機を逃れる。
それまでは、「日本は辺境に位置しているが、神に守られた国である」という意識であったが、
元寇以降は、「世界最大の軍事国家に勝ったのは、神に守られているからだ。
日本は世界で一番優れた特別な国である」という意識に変化し、
そのような思い上がりに近い「神国意識」は第二次世界大戦の敗戦にまで引き継がれる。
(伊沢元彦『逆説の日本史6』)
「神国」は「武士道」とも関係しつつ明治時代から昭和時代初期まで日本思想の根幹を形成するが、
じつは両者ともに史実には反することが証明されつつある。
(佐伯真一『戦場の精神史』NHKブックス998 2004・5)
『蒙古襲来絵詞』は、戦いに勝った田舎武士のメモリアルとして制作された絵巻であるが、
元という当時世界最強の軍事国家が、高麗・南宋を征服し、
国を失った民が兵士として次の征服地である日本に派遣されてきたという構図を知ったうえで見なければならない。
日本にとっては、国が滅びるかどうかの戦いであったが、
南宋や高麗の民にとっては国が滅びてしまったために投げ込まれた悲しい戦いであった。
特筆すべきことは、[人間による地上の戦い]と[神々による天上の戦い]とがあったことである。
そして、敗北必至であった戦況を一転させたのが「風」であったことから、
朝廷や鎌倉幕府は、天上の戦いに重きを置いたため、
寺社勢力が蒙古襲来を機に一気に盛り上がったことにも注目すべきである。
(海津一郎『神風と悪党の世紀』講談社現代新書1243)
参考文献
▼蒙古襲来絵詞を見るための基本資料
1) 『蒙古襲来絵詞』中央公論社 日本の絵巻13
2) 太田彩『絵巻=蒙古襲来絵詞』日本の美術414 至文堂2000年11月
▼蒙古襲来に関する最近の基本文献
1)海津一郎『蒙古襲来―対外戦争の社会性―』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー32 1998・2
2)海津一郎『神風と悪党の世紀』講談社 現代新書1243 1995・3
3)村井章介『北条時宗と蒙古襲来―時代・世界・個人を読む―』日本放送出版協会2001・1
4)関幸彦『神風の武士道』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー120 2001年6月
5)筧雅博『蒙古襲来と徳政令』講談社 日本の歴史10 2001年8月
6)金谷匡人『海賊たちの中世』
7)吉川弘文館 歴史文化ライブラリー56 1998・12
8)伊沢元彦『逆説の日本史6 中世神風編』小学館文庫2002・7
▼蒙古襲来に関する基本資料
9)『八幡大菩薩愚童訓』日本思想体系20寺社縁起(岩波書店)
10)『竹崎季長絵詞』日本思想体系21中世政治社会思想上(岩波書店)
▼蒙古襲来に関して歴史小説からのアプローチ
11)白石一郎『歴史よもやま話 蒙古襲来』日本放送出版協会 2001・3
12)白石一郎『蒙古の槍』文春文庫
▼蒙古襲来の時代を画像で見るための参考図書
13)工藤敬一『北条時宗とその時代』平凡社2000・10
14)佐藤和彦・錦昭江『北条時宗の世界』河出書房新社2000・11
戦況の概要
問題点
戦い:[風と波][水と食糧の補給][戦い方(個人と集団)]
[元に降伏した高麗人と南宋人が中心(負けても失うものが少ない戦い)]
日本人の意識:[神国という意識]
社会構造:[寺社勢力の台頭]
日本と大陸との戦いは、日露戦争や太平洋戦争でもそうであったように、常に補給路の確保が問題となる。
二度にわたる戦いは、元軍にとって補給との戦いであったとも言い得る。
とくに二度目の弘安の役は炎暑の中での戦いであったため、深刻な水不足をもたらし、
戦死者よりも病没したものの方が多かった。
また、軍船も、高麗で急造されたため、玄界灘の強風と荒波に耐える十分な強度を備えていなかった。
第一次蒙古軍来襲(『八幡愚童訓』)
文永6年
蒙古の国使の黒的と殷弘らが対馬に来島。
対馬の守護少弐氏の代官宋右馬允資国(ソウウマノジョウスケクニ、「助国」の表記もある)
と諍いを起こし、塔次郎と弥太郎の二人を蒙古へ連れ去る。(二人は無事に帰島)
文永11年(1274)
10月3日
蒙古・高句麗両軍あわせて4万人をこえる兵が、900艘をこえる船に乗り日本を目指して出航。
高麗の合浦を出航。
問題点:@船の強度は?
結果的には「神風」が吹き蒙古軍は大敗を喫するのであるが、
旧型の船 や にわか造りの船 が混じっていたか?
A船の構造は?
船首と船尾とが高く、真ん中が低い構造。
(軍船 と 渡海船 と関係が、設計の上で曖昧であった?)
追波対策?
参考資料(6)p.216
10月5日午後4時
対馬の西岸 佐須浦(佐浦、現在の小茂田浜)におびただしい数の船団があらわれた。
対馬の守護少弐氏の代官宋右馬允資国が80余騎を従えて、4里の山道を越えて駆けつけた。
資国は58歳。到着したのは、午前2時頃。
夜明けを待って、使者を通訳と共に敵船に派遣。蒙古軍は一斉に矢を放った。
使者の乗った小舟を追うように千人ちかい兵士が上陸。
宋資国以下80余騎の武士たちは、全員討ち死にをした。
資国の家臣である斉藤資足という武士は、蒙古兵を相手に獅子奮迅の働きを見せ、
刃が折れると石を握って戦い9人の敵兵を打ち殺した。最期は、自分から岩に頭を打ちつけ自害して果てた。
宋資国は、小太郎と兵衛次郎に戦況を大宰府へ報告に行かせている。
対馬では、島民の多くが殺され、家は焼かれ、生き残ったものは捕虜となった。
10月14日午後4時
壱岐島北西の海岸に来着(現在の勝本から湯ノ本付近)。少弐氏の守護代である平景隆が,100余騎で防戦。
蒙古軍は、大船2隻から400人が上陸。
平景隆は、新城村の樋詰城(ヒヅメジョウ)から百騎の郎党を従えて駆けつける。
両軍は、庄三郎の城の前で激突。景隆一党は夜になって闇にまぎれて樋詰城へ撤退。
樋詰城の規模は、本丸が東西18間()、南北14間()、堀の周りが65間、深さが7尺7寸。
10月15日
早朝、蒙古軍の攻撃開始。夕暮れ時になって城の一の木戸が破られる。
間もなく城の櫓が炎上。大手門が破られたため、平景隆は城中で自害。
一族郎党、刺し違えて全員死亡。
島民のうち、男は全員殺された。女は、掌に穴を穿(ウガ)たれその穴に綱を通されて数珠繋ぎにされ、
船縁から吊り下げられたという。
10月16日
肥前国鷹島をはじめとして北松浦半島から入野半島の沿岸一帯が襲撃された。
倭寇(海賊)として海を支配していた松浦党の本拠地を叩くことが目的であった?
松浦党は、壇ノ浦における源平の戦いで第一線に陣を敷いた一族。
瀬戸内海の村上党とならんで中世に海を舞台に活躍したことで有名。
襲撃された松浦党は、以後の海外における活躍が著しく活発になる。
10月19日
筑前国恰土郡の今津湾に、右副元帥洪茶丘に率いられた蒙古軍が来襲。夕刻近くに上陸。
蒙古郡が上陸作戦を開始するのは夕刻。これは、陣地を敷いて待ちかまえていることを前提としているから。
日本軍は室見川あたりで迎撃。しかし、博多西方の百道原まで退却。
夜になり蒙古軍は続々と今津湾に集結。能古島と妙見岬の間の海峡から博多湾へと侵入。
10月20日
少弐経資の弟である少弐景資を「その日の大将」と決め応戦。
博多の箱崎に本陣を置き、今津や赤坂方面に別働隊を派遣。ご家人たちはそれぞれに自分の陣地を決め、個別に応戦。
早朝から、博多湾を埋めつくした九百艘をこえる元軍の船団は一斉に太鼓や銅鑼を打ち鳴らし攻め入ってきた。
陸に向かって押し寄せる兵士たちの背後からは、大船の擲弾器から鉄炮を飛ばす。
今津方面からは、洪茶丘の軍勢が百道原へ進撃を始める。
元軍は、室見川の河口付近に集結。
日本軍は、百道一帯に兵を配するとともに、本陣を祖原山(福岡市西区祖原山)へ移した。
元軍の武器@鉄炮 中国では、「震天雷」と称された。
缶入りの火薬を擲弾器で遠くへ放るというもの。威嚇用の武器。
短弓 矢が短く、馬上で扱うのに適している。速射ができる。鏃に毒が塗られているため殺傷能力が大きい。
戦国時代における戦場のケガは、弓矢によるものが80%を越すとされていることから考えても、元軍の用いた矢の威力は絶大であった。
戦い方 日本 個人戦 名乗りを上げて一騎で突っ込んでいく。
元軍 集団戦 周りを大勢で取り囲み包み込んでしまう。
夕暮れ時には、博多の西部と東部とを占拠された。風雨が強まる中を日本軍は大宰府へ後退。
大宰府には、白村江(ハクスキノエ)の敗戦をきっかけとして、
7世紀後半に新羅と唐からの報復をおそれて水城(ミズキ)が構築されていた。
水城は、東西10丁に及ぶ防御を目的とした大堤防。
元軍は、博多に陣地を構築せず船に戻っていった。
なぜ、陣地を築くことなく引き上げたのか?
@船に乗ってきたため、陣地を構築する資材の調達は現地でするしかない。風雨でしかも闇夜での作業を避けた。
A元軍はもともと遊牧民族であって、定住して戦うことに拘らない?
B知らない場所に仮の陣地を構築しても、雨の中で夜襲をかけられたら応戦できない。
C博多を焼き払ったのは、元軍だけではなく日本軍も火を付けた? 数万人の食料を準備することができなかった?
D元軍の指揮命令系統が乱れたため、立て直す必要があった?
10月21日
大宰府に引き上げた日本軍は、決死の覚悟で博多湾に向かった。
しかし、晴れわたった空の下には、元軍の姿はなかった。
なぜ、元軍の船は、博多湾から出ていったのか?
旧暦の10月21日は、現在の11月11日にあたり、台風の来る季節ではない。
また、文永の役では、元軍の船団が博多湾で風のために沈んだという形跡もない。
参考資料『八幡愚童訓』
高麗側の記録
船の沈没によって、13500人が死んだ。
博多湾から高麗に帰港する途中の玄界灘で沈没?
なぜ、博多湾を出たのか?
10月3日に高麗の合浦を出てから、三万人を越える兵士や兵士の数を上回る数の水夫たちが
20日以上もの間海上で生活している。
その間、対馬・壱岐・北松浦半島などで食料や水の補給をしたにすぎない。
900艘の船に水を補給するだけでも、大変な仕事になる。
元軍が侵略した場所は、もともと食料や水を十分供給できる地域ではなかった。
とくに渡海船が積み込む水は腐敗しないよう「聖なる井戸」から汲むのが常道であり、
3万人が10日(一日1リットルとしても3万リットル!)過ごすためには、志賀島では補給基地にならない。
補給ラインを持たない元軍は、現地で順調に補給できないと撤退を余儀なくされる。
秋を選んだのは、現地調達の意味もあったのであろうが、迎え撃つ日本軍も松浦党などの水軍も加わっていたため、
敵の弱点をよく把握していた?
高麗の水夫たちは、
@風を間違えると帰れなくなる
A高麗と博多とは近い異国の関係にありそれほど遠い地域でなはない、
といった感覚もあったはずである。
後年、二度にわたる元寇のたびに「神風」が吹いたとされたが、元軍が撤収を決めるにいたった理由として
@日本軍の圧力が予想以上に強かった、
A補給が予想以上に手間取った、
B水軍の発想は、もともと占拠する意識は薄く、「ヒット&アウェイ」を基本とする。
博多を焼いた以上、もはや留まる目的がないと判断
C急造の船は、構造的に不安があった】などといったなどを考える必要がある。
12月 元軍、高麗の京である開京に帰着。日本人の捕虜は200人。
建治元年(1275)4月 蒙古使節が長門の室津(山口県豊浦町)に来航。
正使:モンゴル人で礼部侍郎(文部次官)の杜世忠
副使:漢人で兵部侍郎首の何文著
通訳:高麗人の徐賛
その他:ウイグル人2名
随行者多数
一行は鎌倉へ連行される。
同年9月7日
執権北条時宗は、連署の北条義政や評定衆(筆頭は、安達泰盛)たちと協議をした上で、
5名を鎌倉の竜ノ口で首を刎ねた。
鎌倉幕府の対応
@ 異国警護番役
A 石築地の建設
B 異国征伐の呼びかけ
弘安2年(1279)6月
蒙古使節(南宋の降伏した将軍范文虎がクビライの許しを得て、
南宋の旧臣としての立場から降伏を勧告)の首をはねる。
問題点:元は対外貿易に積極的で、文永の役以降も日本の商船を優遇。
日本も、伝統的に中国の文化には敬意を払い、漢籍の受容は積極的であった。
鎌倉幕府は、南宋の無学祖元を招聘し鎌倉の建長寺に迎えている。
弘安4年(1281)
5月3日
東路軍 高麗合浦を出航。高麗軍(兵士と水夫4万2千人 艦船900艘)
江南軍 中国慶元(寧波)から出航。(兵士と水夫10万人 艦船3500艘)
両軍は日本の壱岐島で合流する予定。
江南軍は、総司令官の阿剌罕(アラカン)が急病で倒れたため、
阿塔海(アタハイ)が新たに着任。この騒ぎで、到着が著しく遅れる。
指揮官は、范文虎。
両軍の合流地点は、大宰府に近い平戸島に変更される。
しかし、当時の連絡は時間がかかるため、全軍に周知できたのは6月下旬であった。
5月21日
東路軍は、対馬に上陸。
5月26日
壱岐の風本(勝本町)に上陸。
壱岐では、鎮西奉行少弐経資が瀬戸浦の船匿城にたてこもっていたが、激戦の末に討死。
(壱岐の箱崎村瀬戸浦に墓。芦部町瀬戸の壱岐神社に祀られている)
元軍は、上陸すると島民を惨殺した。島民は、家族を連れて山の中に逃げ込んだが、
赤子の声を聞きつけて元の兵士が島民を殺害に来るので、赤子を刺し殺して逃げ隠れた。
6月6日
筑前国志賀島に迫る。
日本軍による夜襲。草野次郎は経永は、21人の首を取り敵船を焼くことに成功。
しかし、元軍も、船を鎖で繋ぎ篝火(カガリビ)を焚き石弓(投石機)で応戦。
夜襲に出かけた武士にうち8〜9割は倒された。
6月7日
瀬戸内海海賊衆の総帥河野一族が、船尾に三島大明神の幟(ノボリ)を立てて二艘の小舟で出陣。
伊予の豪族河野六郎通有と伯父の通時らであった。
他の小舟とは異なり悠々と漕ぎ寄せてくる二艘の小舟を、元軍は使者の船と思ったのか、
そのまま元の船に横付けすることを許してしまった。河野通有は、
帆柱を倒して梯子として船に討ち入り、火をかけた。
船員を薙ぎ倒し切り伏せ船将をはじめとして生き残った兵士を捕虜にして凱旋。
このとき河野通有は負傷。通時は戦死。
元の船団は、志賀島へ移動。
香椎の石築地に陣を敷いていた大友頼泰の軍勢を先頭に、箱崎に陣を敷いていた薩摩勢や博多の少弐勢が志賀島に向かった。
6月8日〜13日
海陸両方で激戦が繰り広げられる。
竹崎季長奮戦。
安達盛宗に率いられた関東勢も志賀島に突入。多くは戦死。
元軍の司令官洪俊奇(茶丘)が上陸したところを日本軍が襲撃し、洪茶丘は馬に乗って逃走。
しかし、日本軍に道をふさがれ窮地に陥る。そこへ元軍の王万戸が駆けつけ難を逃れることができた。
6月13日
元軍と日本軍との優劣は判定しがたい。
しかし、元軍に志賀島に陣地を築くすきを与えなかったことは確かであろう。
6月の炎暑で船団内に疫病が発生。戦死者が千名なのに対して、病で倒れたものは三千名に及んだ。
志賀島では水や食糧の補給ができない。
すでに制海権を把握した元軍にとって、志賀島は戦略上の要地とはなり得ない。
戦術的に見ても、長期にわたる戦線の維持は兵士の消耗を増やすばかりであり拘る理由はなかった。
東路軍と合流して再度襲撃という作戦をとったと考えられる。
元軍は志賀島を引き払って,博多湾を去り壱岐へ向かう。
一族郎党を殺戮された松浦党をはじめ玄界灘で名を馳せた海賊衆は、オオカミのようにしつこく後を追っていった。
6月18日
このころ、元の東路軍は壱岐へ到着。江南軍を待つ。
食料は、1ケ月分程度を残す。
江南軍は、ようやく新司令官の阿塔海(アタハイ)が乗船。3500艘の大船団は、船山列島から順に抜錨。
[事前の計画では、6月15日に壱岐で合流]
6月29日〜7月2日
日本軍の逆襲。
少弐一族、一族を殺され復讐の炎で胸を焦がす松浦党、薩摩の島津勢などが壱岐に停泊中の艦船に向かう。
日本の軍船は、20人乗り1本帆柱十挺櫓程度の小舟が中心であった【蒙古襲来絵詞】。
松浦党は、さらに小さな6挺櫓1本帆柱10人乗りの天登舟(テントウフネ)なども使われたか?
「蛮船50余艘が互いに連携して攻めてきた」と元側は記載。総勢600〜1000名程度の軍勢?
6月25日ころ
肥前国平戸に,江南軍(兵力10万人 3500艘)来襲。
張禧に率いられた600艘の兵士が平戸に上陸。
残りの艦船は、青島水道を津崎水道を経て伊万里湾へと向かった。
江南軍の指揮系統
総司令官 蒙古人の阿塔海
将軍 漢人の張禧と李庭
南宋人の范文虎
10万人の兵士のうち7万人は南宋人。
元では、征服されたばかりの南宋人が最下層の人種とされていた。
南宋人たちは、耕作用の鋤や鍬を持参。
江南軍の主力艦船は、ジャンクであったか?
逆風帆走が可能な前檣と主檣の二本の帆柱を備え、船底はV字形。
内部構造は、隔壁で仕切られていた。
船の長さは、30m前後。
10〜12挺の櫓(ロ)を備えていた。
船の幅は、8m前後。排水量は300トン。載貨重量は200トン程度。
このような大型の渡海船を中心に中・小の小型船が随伴した。
6月29日 少弐資能、壱岐で戦没。
7月27日
鷹島沖で、江南軍と東路軍合流(10万人,4000艘程度)。江南の軍船は、互いに繋留し方形陣を敷く。
東路軍900艘は、鷹島の西方海域(阿翁から女瀬鼻にかけた約5kmの海域)に投錨。
松浦党が、大型船が動けない真夜中の干潮時を狙って夜襲をかける。
伊万里湾は水の補給も可能であり、1ケ月にわたって居座る。
閏7月1日
台風により異国船の大半が漂没。
伊万里湾の十キロ四方の海域にもやい綱で繋留された船団は、7月1日の明け方から21時間も
吹き荒れた台風によって壊滅的な打撃を受ける。
閏7月3日〜
少弐景資が掃討戦の総大将となり、鷹島の対岸の御厨(ミクリヤ)の浜辺に本営を置いた。
松浦党を中心に復讐の念に燃えた武士が元軍に襲いかかる。
鷹島に残っていた蒙古兵は、島の北の端にある遠矢ケ原と西端の牧岳の断崖に追い詰められる。
千人を超える兵士が降伏した。しかし、生かしておくのは無益であると考え、中河で首を刎ねた。
(中河は、博多の那珂川か鷹島の中川か不明)
東路軍の900艘は台風を逃れ帰還。未帰還者は8000名に及んだ。出征時は、27000人。
平戸に残っていた元軍も引き上げた。生還者は16000名。
捕虜のほとんどは殺された。
南宋人の中には、助命され九州各地の領主に払い下げられた者もいた。
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