市原市五井飯沼龍昌寺
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千葉県市原市五井
[龍昌寺縁起原文]

養老川の聖徳太子伝承

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龍昌寺縁起のキーワード

上総 養老川 市原 五井 小田原
森山 霞原 飯沼 入沼
救世観音 薬師観音 法華経 普門品
聖徳太子 守屋
鳥羽院
四天王寺 法隆寺 春日神社 鹿島
大和屋勘兵衛 盲目 仏舎利

養老川は、交易の主要道であるとともに、情報の幹線でした。
養老川は、源頼朝に因んで「手綱川」とも呼ばれていました。
頼朝伝説は、
[海を越えて逃れてきた頼朝が、ここでこのようなことを祈った]
という形式をとるとき、
観音や地蔵信仰、あるいは神社の縁起
になります。

市原市五井の養老川南側の飯沼(旧、東海村)に
龍昌寺という由緒のあるお寺が建っています。

市原市内の聖徳太子伝説
1)龍昌寺
2)惣社国分寺
3)旧内田村太子堂寺

龍昌寺には、注目すべき「聖徳太子伝説」が伝わっています。

聖徳太子に関する基礎的DATA
参考:岩波日本史事典(CDーROM)

聖徳太子【しょうとくたいし】

574‐622(敏達3‐推古30.2.22) 7世紀の有力王族。
厩戸うまやど皇子が当時の通称。
聡明さを讃える和風の豊聡耳とよとみみ・豊聡八耳命などの称号や
仏教の立場から徳を讃える聖王・法王・法大王・法王大王などの
漢語の称号があります。
父は、用明天皇。
母は皇后穴穂部間人あなほべのはしひと皇女。
いずれも蘇我氏の血を受けています。
山背大兄王の父。
蘇我・物部の争いでは,蘇我馬子の陣営に敏達系王族とともに加わりました。
このとき先頭に立って戦ったという説話が、『今昔物語集』巻11第一話などに掲載されています。
593(推古1)推古天皇が即位すると<皇太子><摂政>になりました。
603年に冠位十二階,翌年には憲法十七条を制定。
620年には、馬子とともに天皇記・国記を編纂。
仏教に深い理解を示し,法隆寺(若草伽藍)・四天王寺などの寺院を建立。
<世間虚仮,唯仏是真>の語は太子の仏教理解を示します。
聖徳太子に対する後世の強い信仰を示すものとして、
多くの太子伝や絵伝,太子像などが残っています。
「三経義疏」を撰修したとも伝えられています。
太子信仰【たいししんこう】
現在・未来の利益を満たす観音の化身としての聖徳太子に対する信仰。
院政期に確立し,鎌倉期には諸階層に浸透し高揚を迎える。
親鸞を始めとして鎌倉仏教の各祖師達は
太子を日本仏教の祖と仰ぎ,命日には太子講を営み,様々な太子講式を作成しました。
庶民は死者追善や浄土への引摂を太子に願ったことから,
十六歳孝養像を始め,多くの太子像を造りました。
為政者は公武を問わず
王法仏法相即の体現者としての太子に未来の予言者たることを期待し,
十七条憲法などに政治の指針を仰ぎました。
参考資料:市原市史別巻 昭和54年11月「市原市の民俗話」18,聖徳太子と甲斐の黒駒


聖徳太子の来臨伝説

旧東海村飯紹の龍昌寺に聖徳太子像を祀った太子堂があります。
その境内[風+馬]馬台(ひようまだい)と呼んでいます。
昔、聖徳太子が黒駒に乗ってこの地に来られたことに由来すると伝えられています。

龍昌寺
東海村飯沼区にありて 今其縁起を尋ぬるに、
上総国市原郡養老作入沼村薬王山龍昌寺聖徳太子の御縁起
密以当寺の聖徳太子と申奉る、
起りは 上官太子の御作なり。
川より出現の尊像救世観音の尊体なり。
法衣を着し、柄香呂を持し、十六歳の御影。
父天皇の御悩を嘆き、諸天に御祈警の御躯。
父母御孝養の尊容なり。
厚く三宝を信敬し、邪魔の守星を御退治あり。
四天王をはじめ大和法隆寺を御興隆、
数箇所の伽藍御造営。
天下安寧万民豊饒を肝要とし、
黒の駒に召し
一七日夜に日本の境を極め
伽藍を立つべき霊地を見そなはし給ひ
士農工商の営を数へ
上貢の労を哀れみ、公益を開き、
衆生御愛の其御厚恵心あるもの 何ぞ貴敬せざらん。
衆生利益の御方便として、二八の御影 手つから三体彫刻あり。
一体は大坂の天王寺
同一体は大和法隆寺
今一体は上総の入沼別当寺にあり、
其来歴を尋ね奉るに、
此の三体は仏法僧を表はし
天地人を形とる。
御誓願として我衆生利すと雖も
遍境東海の衆 利せんに難し。
願はくば仏法流布有縁地の地に永く滞めたし。
願成就せしめ給へと一体を難波の浦の海底へ投入れ給ふ云々、
然るに人皇四十五代の帝聖天皇 天平八年(皇紀1396年聖)に当って
(武天皇は太子の後身なり)
上総国入沼村[風+馬]馬台森山霞原と云ふ所あり。
往昔、上宮太子黒駒に召され、日本の境を極め、
諸国の霊地御見立の事あり。
其時、此処に御馬を暫く立給ふ所
因って[風+馬]馬台と云ふ(是伝語也)
亦此森山と云ふは、其折守屋魔をなさんと霞中に形を現はさず
霞と共に消えて 霞晴れたる故 守屋魔の内日翳原と云ふ、
(此の霞原に鹿島より春日明神を勧請す。
則、当所の氏神なり。因って伝へ語ふ)
誠に故ある哉
其後、人皇七十四代鳥羽院御宇 天仁戊子年(皇紀1768年)
此守屋魔の内に龍昌禅師とて 貴僧あり。
平日、薬師観音を信じ、普門品怠らず、
殊に上宮太子救世の悲願たることを 深く尊信しけるに
或夜普門品を誦し、小王身と唱へさす。
忽ち、地震ひ赫くこと日中の如し、
頭を上げて西を見るに
大なる光物丸く虚空に見はる、
さては竜灯と云ふものならんと見るに
間々遠く飛びて此の川岸に落ちて消えぬ。
禅師あやしみ恐れ、人にも語らず、
此の川岸に霊仏の埋れおはしますにや 
と心をこめて観音の像を念じけるに十八日二十三日極めて前の如し、
扱ては仏の御告にやと一心に観音を念じるに、
或夜老翁枕に立ちて告げて日く
此川岸に聖徳太子十六歳の御影の直作あり、
水底にあること五百年に至れり、
揚げて諸人に拝せしめよ
信厚村里は繁栄ならんと一首の御詠歌あり。
  のけしまのいぬまはでずとまつかしまはるひのどけきいまてあふやぎ
  除志満乃居不間和出不土俟鹿島春日農登家喜今出逢弥憙
 我は、当所氏神春日明神なり と夢は覚めたり。
禅師驚き村人に語る
諸人不思議の思をなし川岸を尋ね掘出し奉べるに、尊像活けるが如く、
かけまくも畏くも円通の大土 柔和忍辱にして 法衣を著し 柄香呂を持し給ふ
拝するものは悦ばざるはなし、
因て此処に一宇を造立し、龍昌信厚の薬師如来と共に此処に安置し奉り
薬王山龍昌寺と号し
守屋魔の内に立て給ふ、
(今は古大子堂と云)
星霜積みて、川欠け落ち、地を此処に移す。
(今の入沼地を此処に移す。人皇106代後祭る)
宜哉 霊験日々に新にして利益を蒙る者いふばかりなし。
百三十代の後 西院天皇明暦元乙未(1655)
武江の城下小田原町に、大和屋勘兵衛と云ふ信者あり。

大和は主国なれば難波の天王寺大和の法隆寺は仏法開基の御寺と聞き識る。
上宮太子御正作の十六歳の御影立給ふ我主国なれば
一度拝礼して 二世の願望成就せんと志し、
先づ大和法隆寺を拝し
大阪に登り天王寺に通夜すること三夜ばかり
然るに両眼頻りに痛み、忽ち盲となる。
勘兵衛甚だ難き符利益にこそ預らめ。
帰りて尋ねを豪る事よと身命を投打ちて深く祈りけるに
或夜、夢中に汝憂ふること勿れ、
眼の開くべき不思議を汝に示さん、
国に帰り東に当る国あり、
上総国沼村入[風+馬]馬台森山の内に、聖徳太子十六歳の御影あり。
往昔、我緑の古跡なり、我同作なれば霊験新なり。
尋ね行きて拝敬信厚せば両眼元の如くならん、努々旋ふべからずと
新に霊夢を蒙り、覚えず信心肝心して下国し此処に尋来り、
一七日通夜して拝敬不怠大慈大悲の御誓願なればと尊信しけるに
七日満たざる暁両眼頻りに痛み焼くが如く、
忽に石の如くなる物二粒両眼より落ち 元の如く明かなり、
感涙を流し恭敬百拝して、出る所の物を見るに光香ありて則ち仏舎利なり。
いよいよ不思議 更に晴れやらず、又一七日通夜し末代信厚のために
此因縁を示し給へと一心不乱に祈りけるに、
或夜亦告げて宣く 汝眼より出ずる所のものは 我握重する所の仏舎利なり。

二歳の二月十五日、暁天に向ひ手をひらきたるならん、
仏舎利分身して汝に賜はる所なり。
大和の法隆寺、大阪の天王寺、上総の入沼の龍昌寺
日本の三太子なり
と霊夢明かなり。
忽ち宿習開発して髪を切り如元房と戒名し、
舎利は当寺の重宝となし、
御宝前に立さらず平生護念の益に預り、臨臨(終?)正念にして云々、
因りてここに近里遠郷聞き伝へ信心いよいよ増し
願として満さるるなし、
奇哉妙哉 観音妙智のカ好く世間苦を救ふ信敬すれば
即ち聖徳太子御立世にあづからん、
仏法五法擁護ふ、
憑りて平日 御念願乃至臨終授台益々明 侖にあきらけし、
誰か此尊像を貴敬せさらん。
深く信じ給へ云々。
                智発教学道険士 東泉住
    昔万治二己亥星初夏朔日         伝灯逢阿謹書



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