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山川町の伝承[西行]

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山川町要川の河川敷で、歌聖西行が和歌をよむ!

資料:徳永正治『山川町遺跡史跡めぐり』 山川町郷土史研究会  昭和60年
   福岡県三池郡高田町『高田町史』昭和33年10月
参考資料
(1)仲井克己「筑後と肥後の七霊宮――七人の姫君の悲劇――」
   (『帝京大学福岡短期大学紀要』13、2001・3)
(2)仲井克己「肥後から筑後に至る遍路道の伝承と信仰――海の文化と山の文化の交渉――」
   (『帝京大学福岡短期大学紀要』14、2002・3)

以下は、(1)の関連部分の抄出です。 
『南筑明覧』記載の和歌を西行作とすることについて、
菊池市の「七霊宮」が源為朝伝説と関係していることもあり、
『保元物語』を参照しつつ考察をしたい。
為朝伝説の始原に位置する『保元物語』(金刀比羅宮蔵本)は、
「為朝生捕り遠流に処せらるる事」に続いて、
諸国修行の西行が崇徳院の霊を慰めるために歌を詠じることによって
物語すべての語りを納める形式になっている。
保元の乱において敗退し恨みをのんで死んでいった讃岐院は天狗と化し、
鹿ケ谷の謀反事件はその祟りであるということで霊を慰撫するために「崇徳院」と追号された。
また徳子が安徳天皇を産むときにも怨霊となって現れたと信じられた。
さらに、平清盛が熱病で死んだのも、崇徳院の天狗の仕業と考えられている。
『平治物語』に記載された悪源太は、死後に雷となって、
摂津にある布引の瀧を見物に行った難波三郎を撃ち殺す。
このような悪霊を慰撫する役割を果たす諸国一見の聖として、
鬼界ケ島に俊寛を訪ねて看取ったあとに俊寛の姫に委細を告げるために戻り
高野で出家をして諸国七道を修行しつつ菩提を弔った有王や、
平治の乱において義朝の死を常磐御前に告げに戻る金王丸がおり、
伝承における西行はこれらの諸国一見の聖の系列に入る。
 崇徳院の霊を鎮めた西行が諸国を巡る聖僧として九州を行脚したという伝承は、
九州佐賀の豪族竜造寺一族の伝承と絡みつつ流布している。
諫早の「竜造寺家系」
(福田晃「平家物語と高野山−−初期念仏聖の活動をめぐって−−」
(『軍記物語と民間伝承』昭和47年2月所収永淵輔夫氏資料)
 に拠れば、
肥前の監使として父季清と共に竜造寺村に居を構えた季慶は、
剃髪して宿阿と名乗ったが、季慶は五番目の子であり、
長男は左衛門尉康清、西行は康清の子であるとする。
瀬高荘が、徳大寺実定から崇徳院の母である待賢門院璋子に寄進されていることを考えあわせるとき、
筑後平野の南方瀬高荘から見た国の境に位置する待居川に西行伝説があったことも肯ける。 
 西行に関する伝承は、熊本県荒尾市(野原庄金山村)にもある。
南関町から玉名に向かう街道の傍らに三四尺の古墳があり、西行法師の墓と言い伝えられている
(『肥後国誌』玉名郡荒尾手永「金山村西行墓」。
 「筑後の腹赤」について、『山家集』(下巻雑)掲載の歌に見える。
また、『肥後国史』荒尾手永「長須村腹赤濱」条に「七日の節会」に供される旨などの記載がある)。
街道を隔てて首塚がある。
ここは、大野荘代合戦の場所であったという。
野原庄樺村に白山社があり、白山権現山王権現高良大菩薩と共に阿蘇大明神が祀られている。
賀庭寺に住む僧が祭祀を司っている。
賀庭寺は、保元元年小松内府平重盛によって建立された寺とされ、往古には四十四坊を数えた。
その社中に、妙見宮などとともに七面大明神・七老神(七郎神?)が祀られていた
(『肥後国史』荒尾手永「樺村白山社」)。
尚、この地を治めた小岱氏は、藤原姓児玉党。
源頼朝の時代に小代八郎行平が下向し、小岱山に城を築いたという。
下益城郡守山郷小野にも白山権現社と関係する七郎権現社がある。
 熊本県大津にも、西行ゆかりの「西行巌」がある。
西行が、彌護山に詣でた帰途、「時雨かとねさめの床にきこゆるは 嵐にたへぬ木の葉なりけり」と詠じたという。
(『肥後国誌』合志郡大津手永中窪田村「西行巌」)
芦北郡津奈木町の「歌坂」にも西行伝説が存する(『肥後国史』芦北郡津奈木手永「中村歌坂」)

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