真ケ谷太子堂縁起考察
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千葉県市原市真ケ谷[太子堂縁起]考察

養老川の聖徳太子伝承:付 池和田の戦い

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牛久:真ケ谷太子堂

(1)太子堂の北東に広がる台地には,[真ケ谷城]が建っていた!
(2)南の岡には,[池和田城]が建っていた!
笠森観音から西に続く内田川流域の情報ネットワークについて,
[城]と関連させつつ考えてみましょう。


キーワード
上総 養老川 市原 真ケ谷 伊豆 箱根
吉野村 三百騎坂 悪谷村 石川村 長峰 矢口 矢田村
源頼朝
八幡大菩薩 箱根権現 白旗大権現 
聖徳太子 行基 弘法太子

真ヶ谷の聖徳太子像

真ヶ谷:聖徳太子像
参考文献
1) 千葉城郭研究会『図説房総の城郭』H14・8
2) 林幹彌「太子信仰/その発生と発展」評論社,昭和47・6
3) 市原氏教育委員会『市原市史(別巻)』昭和54・11
4) 日本歴史地名大系12巻『千葉県の地名』1996・7

牛久周辺の城
1) 池和田城(市原市池和田字城廻)
  田尾字陣馬台砦(北条氏が池和田城を攻めたときの砦)
2) 鶴舞城(市原市鶴舞字北根来)
3) 御園生城(市原市藪字大牛,市原市外部田字沖台)

聖徳太子(574-622)は,
推古天皇の摂政として活躍しました。
大きな事績は以下のとおりです。
@崇仏論争で蘇我馬子とともに戦い,
  仏教興隆の基盤を形成しました。
A603年に冠位十二階,
  604年に憲法十七条を制定しました。
B法隆寺・四天王寺を造営しました。
このころは,「日本」という国名も定かではなく,
年号も制定されていません。
律令国家体制の整備が始まるのも,
およそ半世紀後のことです。
律令体制が本格的に運用され,
中央集権国家にふさわしい本格的な都が造営されるのは
710年のことです。
そのとき,[歴史]が記述されました。
『古事記』と『日本書紀』です。
そこでは,
天皇はアマテラス以来の神々の系譜に連なる高貴な血筋とされ,
異国の宗教である仏教との関係は明確にされませんでした。

奈良時代になると,
鎮護国家の思想に基づき東大寺を中心に国分寺・国分尼寺が各国に建てられ,
仏教は国家宗教的な色合いを帯びてきます。
このとき,天皇(王法)と仏教(仏法)との関係が問題になっていきます。
そこで注目されたのは,
天皇家の血筋をひきながら仏法の導入に主導的な力を果たした聖徳太子です。
8世紀後半には,絵伝が制作され,善男善女に作善を勧める法師が現れたようです。
その後も聖徳太子信仰は広まっていき,
院政期には現在・未来に寿福をもたらす観音の化身として定着しました。
現在残っている聖徳太子絵伝のもっとも古いものは,
延久元年(1069)法隆寺東院絵殿に秦致貞(はたのむねさだ)が描いた障子絵とされています。
鎌倉時代になると,太子信仰は隆盛の一途をたどり,
親鸞をはじめとして,鎌倉時代新仏教の祖師たちが日本仏教の祖と仰いで信奉するに至ります。
庶民は,死者の追善や浄土への引摂を願いました。
為政者は,王法仏法相即の体現者として信仰の対象としました。
太子像は,
2歳の南無仏太子・16歳の孝養太子・35歳の摂政太子・講讃太子などの諸形式があります。

聖徳太子信仰は,庶民の信仰として流布したため,
交易のルートと密接に関係しつつお堂が建てられ運営されていきます。
市原市では,惣社太子堂・五井龍昌寺と牛久真ヶ谷太子堂が有名でした。
ここでは,地元の人たちしか知らなくなってしまった真ヶ谷の太子堂に伝わる太子伝について,
交易のルートとも関連付けながら考えてみましょう。

[水運の大動脈:養老川]
養老川は,日蓮が大悟した清澄山の東麓を水源として,
房総半島を横断し五井から東京湾に注いでいます。
江戸時代は「大川」と呼ばれていましたが,まさに房総半島で一番大きな川といえます。
養老川の五井区と出津区に橋が架かったのは,明治18年のことでした。
長さ45間(81m),幅2間3尺(4.5m),木製で欄干がありました。
通行するためには,金5厘が必要でした。明治42年に架け替えられました。
そのときの工事費が9700円。
養老川は,米・薪炭・木材などの舟運が盛んでした。
江戸時代初期は,本郷村より上流と下流に分けられていました。
上流は流れが速いためやや小さな舟10艘,
下流の平野部では20艘で構成されていたようです。
その後,川道の開発が進み,本郷の河岸には船宿・舟頭・舟引などができていきました。
川舟の運賃は,筒森村から本郷河岸まで「小出し舟」で薪九百二十束につき金一両。
本郷河岸から五井河岸まで薪千二百七十束につき金一両というレートだったようです。
ちなみに,漁師の舟は「舟一艘,家一軒」(九州柳川)といわれており,
舟は非常に高価なものでした。
所持している舟の数は頻繁に変動しますが,
概ね村ごとに舟持ちは多くても4人,その大半は舟を一艘しか持っていなかったようです。
上流は「岩瀬勝(いわせがち)」であったため,
上りはふつう舟頭3人であるところを4人必要とし,
舟の寿命は約3年,
一年に十八〜十九回しか運行できない,
などかなり厳しい中での水運事業でした。
現在のFRP船とは異なり重くて壊れやすい木造船を使っての運搬ですから,
大変な苦労を必要としたことは容易に推測できます。

[物流の中心地:牛久]
川の境界は,やがて交易の中心地であった牛久村に移ります。
牛久には,長南と木更津とを結ぶ往還がとおり,
物資の集散地として町場化していったことが原因と考えられます。
享保8年には六斎市が賑わっていました。
牛久にあった養老川の渡船場(明治5年当時:佐瀬村から牛久村へ)は,
川幅30間(約54m)。
船賃は,平水3尺のときに1人につき銭24文。
2尺増水までは48文。
年間10800人が通行したということです。
1日につき30人が利用したことになります
(cf.『市原市史 中巻』第三章江戸時代 2.渡船場と人々の往来)。
牛久から長南に向かう途中に笠森観音堂があります。
この観音堂については,前号に書きました。
その後に調べたこと(名古屋の笠寺に関する伝承など)も併せてHPで公開しています。
http://www.rizardon.com/~nakai/kasamori.htm
牛久には,「牛久城」があり,その地が「天王台」と呼ばれていたことなどから,
いかにも琵琶法師や山法師あるいは遊行巫女などによる「語り」があったように思われますが,
残念なことに調べることができないでいます。
もしご存じの方がいらっしゃったら,ぜひ教えてください。

真ヶ谷の聖徳太子2

真ヶ谷:聖徳太子像2 [庶民の信仰:真ヶ谷太子堂] 牛久の交差点から東(笠森観音の方)へ500m程度進むと, 左手の丘に小さなお堂が見えます。 このお堂が,真ヶ谷太子堂です。 真ケ谷太子堂は,真ヶ谷城の突端にあり, 見方によっては裏鬼門を守る形になっています。 すぐ西側に独立した形で不動堂もあり, 文化論の立場から考察をすべきですが, ここでは街道を行き交う庶民によって 信奉された太子信仰の中心地であったことを確認して 論を先に進めましょう。 真ヶ谷城の標高は約80m。 南北に長く,長軸500m,短軸250m。 城というよりは舘といった方がふさわしいかもしれません。 この丘の東には, 「堀ノ内(ほりのうち)」「殿部田(とのべた)」 という地名が残っています。 これは,真ケ谷に城があった名残と考えるべきでしょうが, だからといって石垣で囲った城を思い浮かべてはなりません。 戦乱の日々が続いた中世では, 敵に襲われ防ぎきれないと知るや館を焼いて逃げていきます。 生きていれば再度チャンスが廻ってくることを, 体験的に知っていたからです。 「潔く死ぬ」などというのは,愚の骨頂。 武士集団とは,戦争をビジネスチャンスと心得て, 勝てる見込みがあると思えば参戦する心身共にタフな プロフェッショナルたちの集まりです。 生き延びることが一番大切なことであって, 館を守ることなど当初から念頭にありません。 そのことは,武士の時代へと扉を開いた保元の乱でも明らかです。 真ヶ谷周辺は,16世紀中頃〜天正18年(1590)まで長南武田氏の領地でした。 このことから,真ヶ谷城は次のような機能を担っていたと考えられます。 (1) 里見氏に対して設けられた境界の城 (2) 牛久から長南城へと向かう街道を見張る要塞 [市原市の聖徳太子信仰] 市原市内には,以下の三つの聖徳太子伝説が残っています。 1) 旧内田村(真ケ谷)太子堂 2) 五井龍昌寺 3)惣社国分寺 いずれも,地政学上重要な場所にあたる水陸交通の要衝にあり, 交易が盛んになる中世から近世にかけて多くの善男善女が集ったと考えられます。 このうち五井の龍昌寺の太子伝については,概略を前号で紹介しました。 その後に調べたことを付して,次のHPで公開しています。 http://www.rizardon.com/~nakai/ryusyoji.htm [真ヶ谷太子堂縁起] 聖徳太子の尊像に関わる縁起は,次のようなものです。 人皇四十六代孝謙天皇の時代(天平宝字二戊成年), 行基菩薩が,伊豆・箱根両権現へ七日間参籠して, 「天下泰平 国家安全」の祈念をされたことがございました。 月の光が美しいある夜, 行基菩薩が一念三千の観念に心をすましていたところ, 菩薩のまわりに光明が満ちて聖徳太子が御神体をあらわしました。 そして,次のように言いました。 「わたくしは,自分の神体を彫刻して姿をこの世にとどめることで霊神となり, とこしえに国を守りたいと願っている。 わが力に仏の力を添へることで,天下泰平を実現させたい」 このようにおっしゃると,諷々たる松風が夜空を吹き抜けました。 行基菩薩は,感謝の心を肝に銘じ,すぐに刀を取り, 一刀三礼の御修法を行じながら聖徳太子の尊像を彫り, 箱根山の麓に安置し奉りました。 さて,幾星霜が過ぎ去り,源平の時代になりました。 箱根権現の別当は,源頼朝がこの地に流されて以来篤く帰依していた祈りの師でありました。 源頼朝は,この聖徳太子の尊像を拝し,「武運長久 国家泰平」の祈りを怠ることなく続けておりました。 頼朝がこの師のもとで祈りをささげて七日目の夜,聖徳太子が源頼朝の夢枕にお立ちになり, 「正しい道を進もうとする願いを聞き入れて,仏の力を添えてやろう」 とおっしゃいました。 源頼朝は,すぐに夢から覚め,ますます太子を敬う心を深くしたとのことでございます。 このことがあってほどなく,平家追討の院宣を受け取ることになりました。 それは,治承四年七月五日のことでございます。正夢とはこのことに違いありません。 源平の戦いは全国に及び,世の中は武士を中心としたものに移ろうとしていました。 そのころ別当を勤めていた源海阿閣梨は,戦乱の地である箱根を離れ, 行基菩薩がお作りになった聖徳太子の尊像をお守りして上総の国へわたってきました。 そして,真ヶ谷の地に太子堂を開いて尊像を安置いたしました。 それ以来,正式名を,聖徳山宝珠院太子堂寺と号するようになったのでございます。 さて,頼朝卿は院宣を蒙り,義兵をあげはしましたが, それは決して平坦な道ではありませんでした。 緒戦の石橋山の合戦で敗退をした頼朝卿は,軍勢も八騎までになってしまい, やむなく伊豆国より安房国へ渡っていきました。 頼朝卿一行を乗せた船は,平群郡勝見の浦に着きました。 頼朝卿はとてもお喜びになって,次の歌を詠みました。 その歌は,   落足の乗り行く舟をかけりなば    かつ見の浦につくぞうれしき というものでありました。 歌の意は,   落人として心細く乗り行く船が    波に揺られて到着したところは,     勝見という,我々の勝利を予見する地であったことだ。      なんとめでたいことだ。       我々の勝利は,これで決まったぞ! というものでした。 実際,勝見の浦に漂着して以来,良いことばかりで, 御加勢する武士たちも増え続けました。 頼朝卿自身も,積極的に方々の武将たちに味方に着くよう御催促もなされ 軍勢を整えつつ安房から上総へ軍を進めたのでございます。 頼朝卿は,淵の明神へ参詣をして,千返の御礼拝をなさいました。 その霊地で頼朝卿は終夜にわたって念誦され,次の歌をお詠みになりました。   源はおなじ流れぞ石清水    せきあけこたへ かみのうへまで この歌の意は,   この尊い「淵の明神さま」の水の流れは,    自分(頼朝)の信奉する八幡大菩薩と源は同じである。     だから,どうか関をあけて自分の望みにこたえてください。      石上の神々に参詣できるようにしてください。     (石清水八幡宮は,都の裏鬼門を守護する神である。      つまり,上京して天下を取らせてください,ということ) という意味を含んでおります。 このように念じておりますと,夜明けころに,神社の奥より御返歌がございました。 それは,   千尋までふかく頼みて石清水    たたせきあけよ 雲のうへまで というものでございます。 歌の意は,   明神の住む淵の一番深いところまで届くそなたの真摯な願いを確かに聞いたぞ。    確かに石清水の神は,われらと同根。     このうえは,関をあけて,障害を取り除き      雲の上まで貴殿を押し上げて進ぜよう。       信仰の心を大切にして,太平の世を作るが良いぞ。 というものでございました。 そのほか,さまざまな奇瑞があったため,頼朝卿は願いが叶うものと喜び, すぐに,洲西の吉野村へお越しになりました。 ここで,味方は三百騎になりました。 そこで,今,この地を三百騎坂と言うのです。 それより,当国市原郡立野村へお越しになりました。 この地で,御旗竿を新しく切り替えられ,それから内田郷へお入りになりました。 道すがら,当所の悪谷村の堤に 木瓜の花が咲いているのをご覧になって 「まことに惜しい花であることだ。茨があるので(それが欠点だ)」 とおっしゃったところ,その後は,そこの木瓜の木は, 今に至るまで茨がないということでございます。 頼朝卿の石狩における御盛徳は,そのように目ざましいものがございました。 悪谷は,牛久から真ヶ谷に行く途中にある地で,現在は,「安久谷」と書きます。 旧道は,真ヶ谷太子堂前から安久谷に道が通じていました。 さて,頼朝卿は内田郷へお入りになると,処々を御一覧になりました。 其頃石川村に,長峰という高くて広い野がありました。 ここに陣を張り,御旗を立て軍勢の御催促を近隣の豪族たちにされつつ, 真ケ谷太子堂へ御参詣になりました。 聖徳太子の御由来をお尋ねになり,挙兵の瑞兆が聖徳太子にあったことに思いを馳せ, まさにその太子像がこの地に渡ってきたことを知り, 浅からぬご縁に驚いたのでありました。 そこで,あらためて天下を取り国家安泰が実現できるよう御誓願をして陣へとお帰りになりました。 すると,その夜の夢に太子が現れ告げるには, 「なんじの願望は,空しからず。 かならず叶えられるであろう。 急ぎ天下を治めて,泰平の世を実現させなさい」 とのことばをいただいたのでありました。 聖徳太子の御霊験は今までも度々あったため, 頼朝卿の喜びはこの上もなく, すぐに当寺へ弘法大師一刀三礼の十三仏,拝仏具一面,松虫・鈴虫とて鈴二振, などを奉納されたのでございました。 これらは,今も当寺の宝物となっております。 そのとき,頼朝卿が, 「天下治平の後,太子堂周辺の地を寄進する」 と仰せられたので,それ以来,門内は税金取立ての及ばない不入の地となっているのでございます。 またあるとき,弓矢を手にとって, 「いよいよ,自分が世に出るものならば,この矢が末世まで矢の竹となれ」 と射たところ,不思議なことにその矢が沼の中に立って, 矢の竹となったのでございます。 この由縁によって,頼朝卿が矢を射たところを,矢口村と言い, また矢の立ったところを,矢田村と言うのでございます。 陣を張り,御旗を立てたところを白旗台と言い,御旗を立てた跡へ白旗大権現を勧請されました。 さて,それより頼朝卿は朝日の昇るように御開運に恵まれ, 天下泰平に国家を治めたことは,これひとえに聖徳太子の御仏徳に相違ございません。 またいかなる理由によってか, あるいは聖徳太子が月毛の馬やあし毛の馬を惜しんだからでございましょうか 少々無理を言っても所持する者は栄えるのが習わしとなりました。 また,剣林不犯 忠孝義貞にしてこの御仏を信仰するものは, 願う気持ちが満足いかないということがございません。これは,広く世の人の知る所でございます。 誠に霊験あらたなる事,筆紙に尽くしがたし,とはこのことでございます。 略縁記には,以上のように記してあります。 文治二丙午年九月 上総国市原郡内田郷真ケ谷村               聖徳山  太子堂寺 開基源海大法師 [参考] 中世になると,聖徳太子信仰はますます盛んになります。 1) 源頼朝:実際に聖徳太子を篤く敬い,聖徳太子ゆかりの寺である四天王寺にも参詣しています。 2) 頼朝は,空海に由来する宝物を寄進したということについて。  → 空海は,聖徳太子の生まれ変わりとの説が院政期から鎌倉期にかけて生まれました。 → 実際に頼朝が寄進したかどうかはわかりません。 3) 親鸞や日蓮も,聖徳太子を篤く敬いました。
池和田城の戦い 『房総里見軍記』 『房総軍記』 天文7年(1538)10月7日第一次国府合戦 池和田城主 多賀蔵人高明は, 足利義明に属し 里見義堯の武将として国府台に出陣。 しかし,戦いに敗れて城に戻った。 永禄7年1月 多賀高明は,国府台に出陣。 このときも負ける。 北条氏政は,浦賀の港から1万余騎の軍勢を率いて上総の地に攻め込む。 池和田城の西は,沼地。 北と南も深い田で,馬で攻めることができない。 東側は高い山になっていて,掘り割りが築いてある。 北条氏政は,付近の民家を打ち壊し, それを埋め草として堀切に投げ込んで, 山の上から矢を射かけつつ攻め込んだ。 しかし,多賀蔵人兄弟や正木大膳亮, さらにその家来である奥田平左衛門らは, 知力を尽くして防戦したため, 攻撃は成功しなかった。 ところが,相州生まれの吉山七郎太郎というものがいて, 主人の多賀蔵人に対して激しい恨みを持っていた。 いつも機会を見て「返り忠」をしてやろうと心に決めていた。 (裏切って,敵の武将に忠誠を尽くすこと) 今こそその時とばかり,北条勢の中に矢文を射て, 「深夜に場内に火を放つから,それを合図に攻め込んでくるように」と知らせ, 深夜に及び火を放った。 場内は混乱し,攻撃軍はぞくそくと城内に入り込み, ついに城は陥落した。 ときに,永禄7年5月9日。 城外に,次の和歌が立て札に掲げられた。   正木にてゆひたる桶の多賀切れて    水もたまらぬ池の和田かな この歌の意味は,次のようなものである。   正木という立派な木で結いかけて作った桶ではあるが,    そのたががはずれて     水をためることもできないのは,      城の下にある池の田と同じようなものだ。   (正木という立派な家来によって守られていたこの城も,     城主の多賀一族が切られてしまって,      落城の憂き目を見ることになったのだなあ。) 池和田城落城のとき,城主多賀蔵人の奥方は,夜陰に紛れて 侍女たちに守られながら城を出て, 矢田の寺庭にある観音堂近くの畑の中に身を隠した。 そこでほとぼりの冷めるを待っていたが, トウモロコシの葉づれの音を聞いて,敵襲と思いこみ,自害をした。 この奥方を祀った「姫塚」が二基畑の中にあった。 今は,痕跡をとどめるだけである。 この付近の人たちは,それ以来,トウモロコシを栽培しなかった。 多賀蔵人と正木大膳亮は,城を乗っ取られたことを悔しがり, 再度,池和田へ押し寄せた。 奇襲は成功し,城は奪還された。 このとき,次の和歌が城外に張り出された。   正木にて結ひたる桶の多賀強く    水も漏らさぬ池の和田かな 歌の意味は,次のとおりである。   正木という立派な木で結いかけて作った桶は,    多賀が強く張っていて水が漏れることがない。     それは,城の下に広がる和田の池のようなものである。   忠臣正木の活躍によって多賀一族は城主に返り咲き,    それはあたかも城下の和田という池が水を漏らさぬのと同じようなものだ。 然し,北条軍は,再度到来して池和田城を落としたのである。 池和田城は,天正18年に秀吉の命を受けた浅野長政によって落城し, その後は廃城となった。


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